引き金はテレビ中継 スポーツ文化の問題として検証を

http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/130205/wsp13020519410009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/130205/wsp13020519410009-n2.htm

ひとつの部屋に候補選手が集められ、吉村和郎強化委員長(当時)が代表選手の名前を読み上げると、選出された選手と漏れた選手がアップになった。「漏れた選手の心を理解しているのか」「命がけの代表争いを見せ物にされた」。「敗者への敬意」という柔道の基本を教え込まれた選手からは憤りの声が挙がった。

練習では他の選手が見守る中で、一人の選手がしごかれた。その苦しむ姿をみて「次は自分か」との思いが芽生えた。監督の存在におびえながら試合や練習をし、「方針に背けば出身母体にも迷惑をかける」とまで思うようになったという。

選手の気持ちを無視した代表発表、一人の選手をみせしめにしての暴力支配。全柔連の指導者に「選手に敬意をはらう」との文化があれば、不信感も芽生えなかったのでは。

私も、昭和50年代に、中学、高校でかなりハードに野球に打ち込んでいたので、スポーツ界の、スポ根的な古いカルチャーは体験的にわかるのですが、かつては、人前で怒鳴りつけたりして恥をかかせたり、特定の選手をしごきあげたりして、なにくそ、負けないぞ、といった敵愾心を燃え上がらせようとしたり、特定の選手にだけ苦しみを与えないように皆で頑張る、といった気持ちを奮い立たせようとする、といったことが、当たり前のようにされていたと思います。しかし、時代も変わり人の意識も変わり、そういった手法は、むしろ、上記の記事にあるように、指導されたほうに不信感を植え付け萎縮させ、かえって逆効果になる、ということでしょう。大阪の桜宮高校でも、監督が主将に強いプレッシャーを与え(体罰も含め)、主将が自殺してしまう、という取り返しがつかない事態になってしまいましたが、やはり、旧来の指導法に固執していた側面がかなり強いと思います。
時代が変わり、人の意識も変わる中、今までこれでやってきたのだからこれで良いはずだ、といった、変化を学ばない頑迷な指導者は、指導の効果も上げられず退場するしかない状況になっているということでしょう。問題は体罰だけにあるのではなく、人が人をいかに指導するべきかという、根源的なところが問われている、それだけに問題は深刻である、ということを感じます。