http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091125-00000046-san-soci
弁護人は続けて「もう少しお聞きいただきたい」と裁判員に歩み寄った。「戦中戦後の日本で育った私は」などと食糧難の中で育った弁護人の境遇を被告の犯行時の状況に重ね合わせて語り始めたのだ。
弁護人の姿に、裁判長は「事件とは関係ない」と一喝、発言を終了させた。この裁判に参加した女性裁判員の一人は判決後の会見で「それ(弁護人の境遇)を例に、被告の減刑を求めることは聞きたくない」と、弁護人のパフォーマンスを冷たくあしらった。
証拠に基づかない弁論はできないものですが、「意見」として何をどこまで言うか、ということを考えた場合、上記のような弁論が許容される余地はあるのではないかと思いますね。それを言うなら、公安事件の公判で、日本の体制を熱烈に批判する被告人、弁護人は多いですが、そういうものは黙認しておいて、通常の刑事裁判では上記のように一喝するというのは、いかにも不公平でしょう。裁判所というのはそういうものと言ってしまえばそれまでですが。
それはともかく、いくら一生懸命やっても「パフォーマンス」と切り捨てられるようなものになってしまえば意味はないわけで、制度の中で許容された範囲内で、何をどこまでやるかということは、当事者にとって、今後とも難しい問題であり続けるでしょう。
あくまで印象ですが、検察官の過剰演出はかなり許容され、弁護人の似たような演出は「パフォーマンス」として切り捨てられて、裁判員裁判自体が、江戸時代の「お白砂」のような、従来の刑事裁判以上に糾問的な、被告人の有罪を皆で確認する場と化して行く危険性というものも感じます。そうなれば、裁判所、検察庁としては、国民を司法に参加させて(参加した気にさせて)刑事裁判を今まで以上に自由自在に操るという、笑いが止まらない状態に持ち込むことができ、一方、日弁連、各弁護士会としては、余計な仕事をさせられた結果がそれでは何のために協力したのかわからない、ということになってしまいかねないでしょう。