http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090218-00000012-mai-soci
死刑か無期か、注目の判決でしたが、結論は無期でしたね。
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090113#1231841242
でも少しコメントしましたが、検察官の狙いとしては、殺害被害者が1名で、死刑か無期かが微妙な事件であるという中で、
1 性奴隷にするなどといった身勝手な動機により、隣人(抵抗力の弱い女性)に突如として襲い掛かり、自室に拉致するという動機、態様の悪質性
2 発覚を恐れ、躊躇なく殺害し、頸部に刃物を突き刺し苦悶の中で被害者をしに至らしめるという残虐性
3 殺害後、被害者の人としての尊厳を踏みにじり、遺体を徹底して損壊し処分した、犯行後の罪証隠滅の悪質性
4 上記3のような行為に及びながら、無関係な第三者を装い取材に答えるなどしていたこと
5 遺族の峻烈な処罰感情(極刑を望む)や社会的影響、この種犯罪抑止の必要性
といった諸情状を強調し、死刑判決を求めるということにあったと思います。
私としては、昨日の「スッキリ!!」の取材の際にも言いましたが(その部分は放映されませんでしたが)、従来の量刑事情に照らせば、死刑には無理があり無期ではないかと思いつつも、もし裁判所が死刑判決に踏み切るのであれば、上記1及び2(特に、隣人の女性をわいせつ目的で略取するという行為の悪質性や、殺害という行為がその必然的な結果であって殺害の計画性がある事案と匹敵するものがあること)が重視されるのではないか、と考えていましたが、そこは東京地裁が慎重に臨んだということになるでしょう。
ただ、これが裁判員が入った裁判であったなら、これでもか、これでもかといった、感情や情緒に強烈に訴えかけてくる検察官の主張、立証を見聞きして、冷静に検討し結論を出せたかというと、かなりの疑問はあります。裁判員裁判であれば、死刑判決が宣告された可能性はあるでしょう。
先日、
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090202#1233503666
でもコメントしたように、裁判員が入った裁判で、過度に感情や情緒に訴えるような主張、立証が野放図に許されてしまえば、刑事裁判が劇場化、ショー化し、感情や情緒に流されるだけ流されて、裁判としての公平性、公正性が害された結果、事実を誤認したり、不当に重すぎる、あるいは不当に軽すぎる刑が宣告されるということになりかねません。日弁連も、アメリカから弁護士を呼んでプレゼン風の主張、立証を皆でオウムのように物まねするような研修をやっている暇があったら、そういった本質的な問題点に思いを致し、刑事訴訟規則の改正など、必要な提言を行うべきでしょう(その能力からしてかなり無理があり、もう遅いとは思いますが)。
今後、おそらく東京地検は控訴し、高裁、さらには最高裁においてこの事件の量刑が問題になるものと思われますが、刑事裁判の在り方、特に裁判員制度下における在り方というものを考える上で、様々な材料を提示したということは言えるように思います。
追記:
全国各地で行われている裁判員制度を想定した模擬裁判で、同じ事件について審理しても、有罪あるいは無罪、量刑についても重いものから軽いものまで、様々な判決結果が出ていることが、裁判員裁判における判断の「ブレ」の大きさを示していると言えるでしょう。裁判官がいるので適正なところに落ち着くはずだといったおめでたい楽観論は、そういった実例を見るだけでも、既に崩壊していると言えます。
例えば、江東区の事件が裁判員裁判であったとして、裁判官3名のうち1名が死刑支持、2名が無期を支持、裁判員中、4名は死刑を支持、2名は無期を支持といった評決結果であれば、裁判員抜きであれば被告人は死刑になりませんが、裁判員が入ることで死刑判決を受けることになり(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律67条)、裁判員を取り込むことで、無期が死刑に、といったことは容易に起き得ます。
冤罪かどうかが争われている有名な袴田事件でも、一審を担当した裁判官が、合議体中、自分は無罪説、あとの2人が有罪説で、結論は有罪になったということを告白していますが、その真偽はともかく、例えば死刑か無期かが微妙な事案で、裁判官の意見が分かれるということはあり得ることです。そこに裁判員が加わることで、従来とは大きく異なる結論になってくる可能性というものはあって、その可能性すら認識できない人には、このエントリーの趣旨は理解できないでしょうね。