Listening:裁判員制度、施行6年 「市民感覚」制限も 「感情を刺激」証拠採用慎重

http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20150522org00m040006000c.html

だが、ここにきて「市民感覚が制限されている」といった指摘が上がり始めている。

記事にも出ているように、最近、裁判員裁判での量刑判断と裁判官のみによる高裁、最高裁の量刑判断が異なる(裁判員裁判よりも後者が軽くなる)ケースが複数出て話題になりましたが、日本の刑事法では、法定刑の幅が広く(例えば殺人罪では最も重い死刑から最も軽い懲役5年まであり懲役刑の法定刑はさらに減軽されることもあります)、裁判で出された様々な証拠に基づく、犯罪そのものだけでなく情状面に関わる諸事情も踏まえて量刑が決まる仕組みになっています。そして、そういった量刑判断は、単にその場のフィーリングのようなもので決まっているわけではなく、職業裁判官による関連性、重要性等への配慮も行われながらの慎重な判断の積み重ね(上級審による是正も行われながら)により、類型化されてきた側面もあって、それも含めて量刑の基準がそれなりに確立されてきていると言っても過言ではないでしょう。
そこに導入された裁判員裁判で、従来の量刑基準に国民の意見も適切に導入することが大きく期待されているわけですが、従来の枠組みを大幅に変更する判断を新たに打ち出すのであれば、その正当性をきちんと明確にしないと、従来の枠組みとの連続性が断たれて正当性、公平性にも疑問が生じかねないことになります。そこはなかなか悩ましい問題であり、最近の最高裁判例で、

「量刑の公平性必要」=裁判員裁判で初判断―求刑1.5倍破棄・女児虐待死で最高裁
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20140724#1406196938

最高裁がかなり丁寧に説明しているところがかなり参考になるのではないかと私は感じています。
市民感覚が制限されている」、「職業裁判官の感覚か」「市民感覚か」といった単純すぎる割り切り方は適切ではないだけでなく危険ではないかという気がします。