村上ファンド控訴審判決・残された問題点

昨日の日経朝刊で、三宅記者が署名入りの記事を執筆していて、興味深く読みました。そこでは、先日のエントリー

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090203#1233640330

でコメントしたように、控訴審判決が「決定」の意義について、

決定に係る内容(公開買い付け等、本件でいえば、大量株券買集め行為)が確実に行われるという予測が成り立つことまでは要しないが、その決定はある程度の具体性を持ち、その実現を真摯に意図しているものでなければならないから、そのためには、その決定にはそれ相応の実現可能性が必要であると解される。その場合、主観的にも客観的にも、それ相応の根拠を持ってそのよう実現可能性があると認められることが必要である。

としたことについて、肯定的な評価がされていました。私も基本的には同じ考え方です。
ただ、残る問題として、上記のように考えた場合、そういった内容のものなのかどうか、「故意」の問題としてかなり微妙なものが出てきてしまうということは言えるでしょう。
控訴審判決の論法によれば、インサイダー情報としての決定と言えるためには、「ある程度の具体性を持ち、その実現が真摯に意図され、主観的にも客観的にもそれ相応の根拠をもって実現可能性がある」ものでなければならず、逆に言えば、そういうものと評価されればインサイダー情報ということになります。
しかし、そういった情報ではないかと疑いのある情報に接した場合、ある程度の具体性、真摯な意図、相応の根拠(主観的にも客観的にも)といった要件を満たしているかどうかという判断は、かなり困難で、どうしたらよいのか困ってしまう、という場面が多々出てくる可能性があるでしょう。どこまで認識、認容があれば、「故意」があると言えるかという問題が出てきます。
高裁が提示した要件をよくよく読むと、「ある程度の」「それ相応の」などと、どうとでも評価できそうな表現があって、その辺を、供述調書をもぎとることに長じた東京地検特捜部の検事のような人から、これでもか、これでもかと朝から晩まで、時には怒鳴られたり机を叩かれたりして追及されれば、ある程度どころかかなりの程度の、それ相応の、といった故意もあったという供述調書が作成されてしまう可能性が高そうです。
その点、破棄された一審判決では、

決定については、機関において公開買付け等の実現を意図して行ったことを要するが、それで足り、実現可能性が全くない場合は除かれるが、あれば足り、その高低は問題にならない。

とされていて、あまりにも広過ぎるという批判をかなり浴びましたが、上記のような決定が存在するという認識、認容があれば故意ありと認定できるという意味では、評価に迷いは生じない、という性格がありました(その評価自体が広過ぎる、ということが問題であったわけですが)。
村上ファンド事件の場合、裁判所の認定としては、ある程度の具体性、真摯な意図、相応の根拠(主観的にも客観的にも)といった諸点は軽くクリアされていて、村上氏の故意について疑義が生じるような事件ではない、という認定であったようですが、今後、発生する事件には、そういった点が微妙なものも十分あり得るのであり、そういったケースで、捜査機関の強引な認定により、本来、事件になり得ない、なるべきではないものが事件として仕立て上げられて行く危険性は、依然として残っているように思います。