忠臣蔵の物語 浅野内匠頭「辞世の句」本当にあったの?

http://www.asahi.com/national/update/1213/TKY200812120337.html
http://www.asahi.com/national/update/1213/TKY200812120337_01.html

一般的に、浅野は切腹前、訪ねてきた家臣と「主従今生の暇乞」を交わし、辞世の句として「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」の歌を残したとされることが多い。

今日は、私の事務所の近くにある泉岳寺で義士祭があり、日曜日ということもあって、かなりの人で賑わっていました。私も、線香を買ってお供えし、お参りしてきました。
上記の記事ですが、確かに、切腹直前の暇乞、辞世の句、ということは、史実としては疑問があるところでしょう。しかし、「忠臣蔵」としては、切腹前、先導する多門伝八郎が、「浅野殿、桜が・・・」と声をかけ、見て見ぬふりをする中で、物陰で男泣きに泣いている片岡源五右衛門と劇的な対面をする、というシーンを抜きにしては語れず、「風さそふ・・・」という辞世の句は、浅野内匠頭の生涯をよく現わしていて、なくてはならないものでしょう。
こういった点は、多門伝八郎が残した覚書にはあるものの、他の史料にはないということで疑問視されることがよくありますが、史実は史実、忠臣蔵忠臣蔵として、切り分けて考えれば良いと、私は割り切って考えています。