細川ガラシャと忠興―京都・味土野/大阪・玉造

http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200606240166.html

家康を背後から攻めようとした三成は、徳川軍の混乱を狙い、留守宅の妻を人質にしようと、まず忠興の屋敷を囲んだ。ガラシャは子どもや侍女を逃がし、家臣の刃を受けて死去。屋敷には火が放たれ、焼け落ちた。1600(慶長5)年7月17日、38歳だった。

昔、司馬遼太郎の「関ヶ原」の中で、上記の場面を読み、強い印象を受けた記憶があります。最期を迎え、細川ガラシャの胸中を去来したものは、父・明智光秀や悲惨な最期を遂げた一族への愛惜、その一族の中にあった自分を庇護してくれた細川家に対する感謝、本来はもっと早くこの世を去るべきところを、生き抜けるだけ生き抜いた上、細川家に貢献する形での死を迎えることに対する覚悟と充足感、といったものだったのではないかと思います。そして、それを支えたのが、キリスト教に対する厚い信仰であった、ということになるでしょう。
「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という辞世の句に、最期を迎えた細川ガラシャの、澄み切った心情がよく現れているような気がします。