昭和天皇の戦時の肉声、元侍従の日記見つかる

http://www.asahi.com/national/update/0308/TKY200703080285.html

いかにも昭和天皇らしいエピソードだと思ったのは、

日記によると、39年7月5日、満州事変を推進した石原莞爾(かんじ)少将らを栄転させる人事の説明のため板垣征四郎陸相天皇に拝謁(はいえつ)した。
その直後の様子について、「陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何(ど)うするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏(じょうそう)、容易に御決裁遊ばされず」と記述。陸軍への不満が人事をめぐって噴き出したとみられる。

ですね。2・26事件の際にも、昭和天皇は激怒し、自ら鎮圧にあたるとまで断固として言明していた、と言われていますが、こういった時の昭和天皇は、側近としても、さぞ恐かっただろうと思います。
また、昭和天皇が単純な平和主義者ではなかった、ということがわかるのは、伊勢神宮参拝の際の

「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満洲事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ」「支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである」「戦争はやる迄(まで)は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」

というお言葉ですね。戦後は、いろいろな理由から平和主義者としての側面が強調され、確かにそれは昭和天皇の重要な一面ではあったと思いますが、戦争は絶対にしない、戦争は嫌いだ、といった単純な平和主義に立っていたわけではなく、無用な戦争、勝てない戦争は極力避けつつも、やるべき、やらざるを得ない戦争は徹底してやるしかない、という考えを持っていたことがわかります。
記事では、昭和天皇のお言葉として、

「自分の花は欧洲訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあつたが、自由でもあり、花であつた」とも語っている。

と紹介されていますが、よく言われているように、皇太子時代のヨーロッパ訪問により大きく感化され、その後の価値観、考え方に大きな影響が出た(そして、それが戦後へとつながった)ということがよくわかると思いました。
崩御後、18年余りになりますが、この記事を読んで、在りし日の昭和天皇のお姿が、自分の中で鮮やかに蘇る気がしました。