圧力や思惑と検察(2)

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060128#1138416307

で、若干述べましたが、その後、

http://d.hatena.ne.jp/okaguchik/20060402

のコメント欄でも、この種の問題について議論が行われていました。
検察庁という組織は、完全な「縦社会」ですから、現場の検事が、完全に自分だけの判断で動ける場面というのは、むしろ少なく、内容に応じ、地検内部、さらに高検、時には最高検の判断を仰ぐ、ということは日常茶飯事であり、事と次第によっては法務省への報告も必要になります。
余談ですが、検察庁から法務省へ行った報告が、特定のマスコミへ筒抜けになり、検察庁側が仕掛けた謀略が当たって、記者が逮捕された、というのが、大昔の「売春汚職」事件で起きたことであり、亡くなった伊藤検事総長の「秋霜烈日」や、先日亡くなった本田靖春氏の「不当逮捕」で紹介されていることは、既にこのブログでも何度かコメントしました。
そういった決裁、報告等の中で、上のほうから、この事件はこういう処理にしろ、などといった指示が出されることは、よくあります。特に問題になるのは、消極的な方向で指示が出される場合です。その理由は、様々であり、ケースバイケースですが、大別して、
1 現場の検事による証拠評価や法律解釈等に問題がある、と判断されている場合
2 捜査・公判経済上、あるいは余力の欠如等により、これ以上、組織として人や物などを投入できない場合
3 検察上層部に、何らかの思惑がある場合
があると思います。
特に問題なのは3でしょう。何らかの政治的な圧力等がかかっていて、事件が「つぶされて」しまうと現場の検事が感じ、強く憤るということが起きがちです。
ただ、これはあくまで私の経験とか、人伝に見たり聞いたりしたことを総合した上での印象ですが、最近の「思惑」というものは、政治的な圧力に屈するというよりも、検察上層部、法務省幹部が、事件処理の不手際により法務・検察の威信を低下させたくない、自分自身が傷つきたくない、あるいは法案成立、予算獲得に余計な邪魔をされたくない、といった、どちらかというと過度の自己抑制、自己規制により、無用な消極的処理を現場に強いる、という、そういう性質のものが多いのではないかと思います。
私自身は、立身出世、栄進することなく、検察庁ドロップアウトしてしまいましたが、おそらく、立身出世、栄進し、組織防衛や保身の意識が強くなればなるほど、上記のような、余計な雑念が入りやすくなり、事件をつぶす方向で物事を進めやすくなる、ということは言えるでしょう。政治的圧力等に屈している、というよりも、自分自身の卑しい心に負け、屈している、といったほうがよいかもしれません。こういったことは、どのような組織にもあることですが、検察庁も、そういった弊害から逃れることはできない、ということでしょう。
ただ、最後に私が言いたいのは、そういった上からの不当な指示、押しつけ等に簡単に屈しているようでは、真の意味での正義は実現できませんし、抵抗すべきところは徹底的に抵抗し、必要があれば、いかなる手段(違法なことはすべきではありませんが)も辞さない、という、強い心を持った検事が必要ではないか、ということです。
上の指示には唯々諾々として従う、という検事が大勢いれば、検察組織は安泰かもしれませんが、国民は不幸です。週刊誌などの記事を読んだ程度で、検察官志望の変更を考えるような人は、さっさと志望を変更したほうが身のためだと思いますが、どこの組織でも、胸に熱い気持ちを秘めた正義感あふれる人々が、組織の堕落を必死に阻止している、というのも、また真実ではないか、と、最近、特に感じています。