所属と名前

一昨日及び昨日の日本刑法学会大会は、私にとって日頃経験しない状況だったので、結構、新鮮なものがあり、見るもの聞くもの興味深いものがありました。
特に印象に残ったのは、司会者が発言者に対し、「所属と名前を言った上で発言してください」と、繰り返し注意していたことでした。
記録に残したりする関係上、どこの誰が発言したかを明確にしておいてもらいたい、ということだと思われ、当たり前と言えば当たり前のことですが、私のような、しがない弁護士の場合、「所属」と言われても、何と言って良いか戸惑いを感じます。自分の事務所名を名乗ったところで、そんなものを知っている人もいないでしょうし(司法修習生が殺到するようなメジャーな事務所所属であれば誇らしく名乗るのかもしれませんが)、非常勤講師を務めている大学名を言ったところで、週に1回しか行かない大学を、「所属先」として名乗るのも妙な感じです(「所属」と言うより「立ち回り先」という感じでしょう)。
確かに、こういった学会に参加する人々は、いずれかの大学院、大学に「所属」していたり、名乗れば多くの人が知っている法律事務所などに「所属」している場合がほとんどなのでしょう。しかし、これまでがそういった状態だったからと言って、これからもそういう状態が続くのか、というと、やや疑問は感じます。そう感じさせるものは、やはりインターネットの発達です。
インターネット以前と以後に分ければ、「以前」は、研究・教育のため、大学院、大学といった機関に人やお金を集中させて、研究・教育の実をあげることが当然のことだったと思います。そういった機関に「所属」することが、研究・教育のため不可欠だったと言えるでしょう。
しかし、「以後」、特にインターネットが高度に発達し人々が活用するだけでなく、インターネットを通じて様々な情報が豊富に入手できるという状態になれば、物理的な存在である上記のような機関に人やお金を集中させ、人々がそこに「所属」する必要性はどんどん低下して行くような気がします(もちろん、ゼロにはならないでしょう)。そういった機関を維持・運営してゆくために費やされている労力には、多大なものがあるはずで、おそらく、優秀な研究者・教育者の貴重な労力が、相当無駄に浪費されているでしょう。そういった無駄なことはやめて、特にどこかに所属することなく、研究のためにつながりたい人々とつながりを持ちつつ研究したい、また、教育にしても、意欲的な学生と個対個でつながって、昔の私塾(松下村塾とか適塾のような)のように、授業料を直接受け取って濃密な教育を行いたい、といったことが、インターネットの活用により、今後は現実として可能になって行くのではないか、そう思います。課題は、特に研究者・教育者側が、安定した、かつ、生活に支障が生じないだけの収入を確保できるか、ということでしょう(その意味で、機関にお金も集中させて分配する現在のシステムには、やはりメリットはあります)。
信州大学ロースクールを巡る不祥事に関連して、コメント欄で、長野県にロースクールが必要だった、という一種の擁護論があって、私もそれには共感するものがありましたが、上記のような態勢が充実すれば、全国の優秀な教員の講義等をインターネットでどんどん聴講し、長野市松本市あたりに設けたサテライト教室で地元在住の研究者や実務家教員によるフォローアップ講義、ゼミを受講する、といった方法も十分可能になるはずであり、そうなれば、書類の虚偽記載といったみっともないことまでして無理に独立したロースクールを作る必要もないし、余計なお金もかからないでしょう。
以上のようなことは、大学院、大学だけでなく、法律事務所についても言えるでしょう。大都市の一等地で、高い経費を費やし、そのツケを依頼者に回しつつ多数の弁護士が集っている必要性というものも、かなり見直しの余地が出てくると思います(そういう状態によるメリットというものもゼロにはならないとは思いますが)。
「所属」ということに関連して、結論は出ないまま、こういったことをあれこれ考えました。