現在の自分と自分が受けた教育

下記の「ゆとり教育」に関するニュースや、

「義務教育で身に付いたもの」
http://blog.drecom.jp/koneko04/archive/694

を読んで、現在の自分と、自分が受けた教育のことを少し考えてみた。
私は、公立小学校で学んだ後、郷里の広島では進学校とされている中学校に進学して、一貫教育で高校まで進み、その後、早稲田大学法学部に入学した。入学後、司法試験に合格し、法律実務家の道に進んで現在に至っている。
学んだ中学、高校は、あまりガリガリと勉強させる、といった雰囲気ではなく、生徒の自主性を尊重しつつ、やる気のある者にはどんどん勉強させるし、勉強しないことによる責任は自分で取ることになるよ、と、それとなく警告しているような学校であった。そういう意味では、一種の「ゆとり教育」を先取りしていたようなところがあった。
私の場合、中学に入ったときから、高校3年生の夏まで、ずっと野球部に所属して活動しており、学校の勉強にはそれなりに真面目に取り組んでいたが、勉強に打ち込むという感じではなく、将来のことを深刻に考えることもないまま、野球に打ち込んでいるといった中学、高校生活であったと思う。
当時から読書は好きで、いろいろな本を読んでいたが、文系科目の成績は良かったものの、理系科目は、生来の好き嫌いの激しさも手伝って次第に嫌いになり勉強しなくなって、成績は悪くなっていった。典型的な「私大文系」タイプになっていったと言える。
ただ、学校自体が進学校であり、生徒のレベルもそれなりに高く、今になって振り返っても、ゆとりは持ちつつも教育レベルもそれなりに高かったので、学校の勉強に真面目に取り組んでいる、という程度の私でも、早稲田大学法学部には入学できた。
実は、中学・高校時代に読んだ大岡昇平の「事件」に出ていた主人公の弁護士が、京都大学法学部出身という設定だったこともあって、京都大学法学部に入りたかったのであるが、理数系科目が見るも無惨なほど成績が悪くて、結局、早稲田大学法学部へ進んだという経緯がある。ただ、入った大学が、自分には合っており、司法試験の勉強に打ち込める環境でもあったので、人生、何がどこで幸いするかわからないものではあると思っている。
中学、高校で学んだことが、その後の人生にどの程度役立っているか、と問われると非常に難しいが、国語、社会、英語、といった科目については、基本的な素養としてそれなりに身に付いたものがあると思うし、理数系の科目は、嫌で嫌でたまらなかったが(大学に入って何がうれしかったかというと、理数系の科目をもう見なくても良いということであった)、その後、法律実務家になり、鑑定書を読んだり、医師や学者の証人尋問をやったり、といった場面にも遭遇するようになって、何とかこなしてきてはいるので、「こなせる」源流をたどると、中学、高校時代の勉強ということになるのかな、と思うことがある。
最近、教育について、「ゆとり」か否か、といった論調に接することが多いが(下記のニュースのように)、どこか違うのではないか、という気がしてならない。社会に出る上で必要な知識は、学校教育の中できちんと教える必要があると思われるし(例えば「消費者教育」などはもっと行うべきであろう)、そういった分野については、ある程度たたき込むような教育が必要ではないかと思うが、それ以外の分野については、それぞれの興味とか適性とかもあり、何をどこまでやらせるか、は、それぞれの意欲、能力に応じて異なってくる面が強いのではないかと思う。
明快なイメージが出てこないが、そういったところが教育の難しさと言えるのかも知れない。