以下は、単なる愚痴と憶測です。
私が司法試験に合格したのは昭和61年ですが、合格者は500名弱でした。当時から、合格者が少ない少ないと言われていましたが、組織的に各方面へ圧力をかけてくれるような、ありがたい人々は皆無で、受験生は、ストレスと絶望感に苛まれながら、黙々と受験勉強をしていたと言っても過言ではないと思います。
論文の受験科目は、教養選択科目(当時はそういう科目もありました)も含めて7科目、口述試験も、7科目すべてについて個別に行われており、合格率は2パーセント程度ですから、受験生への負担は多大なものがありました。私の場合、たまたま大学4年生の時に合格できましたが、「合格」ということについて、合格後もしばらくの間、なかなか現実感が感じられなかったことを覚えています。夢を見ていて、気がつくと夢が覚めているのではないか、といった感覚に、しばらくの間とらわれていました。とても実力だけで合格したとは思えず、あの時だけは、やはり神か仏のような存在がいて、合格と不合格の間の三途の川のようなところでもがいている自分を、合格のほうへ引き上げてくれたのではないか、という感覚も持っていました。後者の感覚は、今でも残っています。勝利、特に、決定的な勝利(連合艦隊がバルチック艦隊を撃破した日本海海戦のような)というものは、実力だけでは獲得できず、運とか、巡り合わせとか、自分ではコントロールできないものが複雑に絡み合って生み出される、ということが、その時、実感されました。日本海海戦当時の連合艦隊首席参謀だった秋山真之が、その後、神秘とか宗教といった世界に強い興味を示していったという話を司馬遼太郎の「坂の上の雲」で読みましたが、何となくわかる気がします。
その当時、既に、日本の法曹人口は少ない、と言われていましたが、法学部の教員有志が、
http://www.omiyalaw.jp/seimei.htm
といった形で、大規模に動くということは皆無でした。この人達の中には、昭和61年当時、既に法学部で教員の地位にあった方も大勢いると思いますが、声をあげるのがあまりにも遅いでしょう?と、昔の受験生としては言ってやりたいですね。本当に、昔から受験生の身になって考えているのであれば、法学部の在学生や卒業生があれほど苦労して受験していた司法試験制度の改善について、もっと昔から組織的に動いてしかるべきでしょう。今、ここまで動けているんですから。
表面に出ているのは「きれいごと」ですが、実際は、法科大学院を作りすぎて(法務省も文部科学省も、定員6000名に達するほど、法科大学院を乱立させてくれなどとは頼んでおらず、ここまで学生数が増大して合格率低下の恐れを招来した責任の相当部分は、安易に法科大学院設置に走った各大学の関係者にあるでしょう)、制度崩壊の危機に瀕したことで(ある意味必然ですが)、設立した法科大学院の存続、自分達の地位の確保を図るため、なりふり構わず死にものぐるいで奔走している、というのが実態ではないか、と強く感じます(あくまで憶測ですよ)。
そう考えないと、昭和61年当時に、あれほど我関せず、といった状態で何ら動かず、「研究、教育」活動に専念(?)していた人達が、ここまでなりふり構わず動いていることの説明がつかないでしょう。
と言うと、コメント欄などで、「法科大学院の崇高な使命が理解できていない」などといった批判めいた書き込みが予想されますが、人間の動きというものは、やはり現金なものだな、と改めて感じています。