石見銀山遺跡の世界遺産登録「延期」を勧告

http://www.asahi.com/national/update/0512/TKY200705120203.html

「登録延期」は4段階の評価のうち下から2番目で、推薦内容の大きな見直しの要求を意味する。文化庁によると、イコモスは、「東西の文明交流への多大な影響」「伝統的技術による銀生産を証明する考古学的遺跡としての価値」「銀鉱山の総体を表す文化的景観」などにつき、さらなる証明や調査研究の必要性を指摘している。

以前、この遺跡を見に行ったことがありますが(物好きと言えば物好きですが)、なかなかおもしろい、とは思ったものの、これが世界遺産になる、ということになると(その時点で既にそういう話は持ち上がっていました)、ちょっとどうかな、という印象を受けました。
銀を採掘していた「跡」ということもあり、特に人目を引く造形物もなく、何だか寂しいところだな、という感じで、その辺が、上記のように、「銀鉱山の総体を表す文化的景観」の要求につながっているのでしょう。
こういった指摘を受けたからと言って、後から新たに何かを作るわけにも行かず、今後の世界遺産登録はかなり厳しい状況ではないかと思います。

宮崎談合、「贈賄にあたり時効」 被告が起訴事実否認へ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070513-00000401-yom-soci

現金のやり取り自体は認めるものの、「収賄の共犯ではなく、贈賄にあたり時効(3年)が成立している」と主張し、起訴事実を否認することがわかった。

この被告人は、知事と業者との間で動いていたようですが、この種の立場の者については、収賄側の共犯になるのか、贈賄側の共犯になるのか、事実認定が微妙になる場合があります。同様の状況は、覚せい剤等の薬物の取引で、譲渡側、譲受側の間に立って動く者についても生じる場合があります。
証拠関係がよくわかりませんが、主張としては見るべきものがある、という印象を受けます。

検察官の訴追裁量は、国民すら立ち入ることができない聖域か?

本日のテレビ朝日サンデープロジェクト」でも話題になっていましたが、

村岡元長官に逆転有罪判決 1億円ヤミ献金事件控訴審
http://www.asahi.com/national/update/0510/TKY200705100187.html

で、裁判所が、

これら派閥幹部について検察側が共犯として起訴しなかったことにも言及。「元長官と同じ事実で起訴する処理も考えられる」と異例の指摘をした。「しかし結局は、検察側の裁量の問題だ」と述べ、起訴しなかったことの是非には踏み込まなかった。

という問題があります。
控訴審における有罪判決の当否は、証拠を見ていない立場でコメントしかねますが、上記の「検察側の裁量の問題」には、かなり深刻なものがあるように思います。
この問題については、以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070129#1170025278

でコメントしたことがあります。
高裁が言うように、この問題について、過去の判例では、いわゆる「不平等起訴」(複数の被疑者に対し、恣意的な起訴、不起訴が行われる)について、不平等であるが故に起訴に影響が出る、という仕組みにはなっておらず、裁判所はこの問題から逃げてしまっています。
では、不当に不起訴になった者について、不正義が是正されるか、と言うと、上記の日歯連事件でもそうであり、また、明石の歩道橋事故でもそうであったように、検察審査会が「起訴相当」「不起訴不当」という結論を出しても、検察庁は、そういった結論を尊重しようとはせず、不起訴にした者は不起訴、という判断に固執しがちです(この点は、今後、制度上、一定の改善は行われますが)。
結局、検察官の訴追裁量は、裁判所は放置、検察審査会も立ち入ることができない、ということで、国民の主権に由来するものであるにもかかわらず、民主的な統制が著しく困難(不可能に近い)一種の「聖域」になってしまっている、ということになります。
従来は、そういった「非政治性」を積極的に評価する論調が優勢でしたが、現在のような種々の問題点に照らすと、本当にこのままで良いのか、ということを十分検討する必要があるでしょう。
私が以前から指摘しているように、国民の司法参加は、裁判員制度が軌道に乗ればそれで成功、という問題ではなく、司法制度全体について検討されなければならず、検察官の訴追裁量の問題も、その文脈で検討されなければ、独善的な訴追裁量の行使、といったことが今後も繰り返される恐れが非常に大きいと思います。

「一審の判決が求刑に沿ったものでなくても、検察側が控訴すれば、高裁では8割方、主張が認められる」

http://d.hatena.ne.jp/okaguchik/20070513/p9

本日の朝日新聞朝刊「裁判員時代」に、上記のような記述がありましたが、そういう実態があるのは事実です。
手元に資料がありませんが、以前、見たことがある資料中の、各高裁における検察官控訴事件の破棄率では、高裁によりややばらつきがあるものの、破棄率は低くても5割を超えており、東京高裁での破棄率は8割を超えていました。そういった状況は、現在も変わっていないはずです。
この辺が、私が以前から、「裁判員制度・国民のおもちゃ説」として危惧しているところであり、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20050226#1109385219
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20041230#1104403499

裁判員制度が、膨大な国費を浪費し国民に負担をかけるだけの、壮大な「茶番」に終わる危険性は、依然として高いものがあると思います。
ボツネタでは、「裁判員になろうと思っている皆さんは,結構,がっかりじゃないでしょうか。」とコメントされていますが、制度自体が、とんでもない「がっかり」に終わってしまうかもしれません。