性犯罪無罪判決への感想

性犯罪の無罪判決が相次いで報道されている、その感想を若干。

知った者同士の関係性の中での性犯罪は、事実認定が微妙になることが少なくない。そこに酒でも入ると、一層困難になりやすい。

暴行、脅迫とか抗拒不能にさせる、それに乗じることが要件になっていて、一見、犯罪の成否のハードルは高くて明確のように見えても、人と人との性関係に至るプロセスや、そういう関係についての同意不同意は千差万別で、供述による認定を余儀なくされるだけに、否認事件では認定に迷うものが少なくない。疑わしきは被告人の利益にという刑事裁判の鉄則が当然適用されるものの、被害者保護の必要性も捨てられず、捜査する上での悩みは深くなりがち。

最近の相次ぐ無罪報道を見ていると、検察の力量低下も感じるものがある。地方の中小規模の地検では、こういう難しい事件の起訴不起訴の決定は、主任検事と決裁官である次席検事のやりとりで決せられる。検事正は事件の中身まで細かく見ないし次席検事に任せていることが多い。このラインでの、主任検事、次席検事の力量が、以前より相当低下しているのではないか。主任検事は捜査の突っ込み不足、次席検事は決裁官としての問題点への突っ込み不足、という。

検察の事件処理で、不起訴というのは、楽であり、逃げ場にもなる。しかし、特に被害者がいる事件で、安易な不起訴は、被害者救済にならないし正義にも反することになる。

中小地検では、大地検のように、刑事部、公判部と分かれておらず、起訴した検事が公判にも立ち会う。そうなると、公判部の検事が別の視点で事件を見ることもなく、起訴検事が問題性を引きずったまま、不十分な公判活動が行われることになりやすい。力量不足の起訴検事が的確、活発な公判活動を展開できるはずがないし、公判になれば、次席検事もますますコントロールしづらくなり、無罪へまっしぐらになりやすいだろう。

検察による、不起訴方向へのフィルタリング機能が高いからこそ、日本での有罪率は高く、そこへの批判はあるが(従来の裁判所が検察寄りといった)、公判で無罪になり得るものが、検察の終局処分の段階で早めにドロップされている面は確実にある。その機能が低下すれば、誤起訴は増え、性犯罪でもその他の犯罪でも、無罪は増えるだろう。

性犯罪の事実認定の在り方が、男性視点のバイアスに毒されている傾向があるのではという、そういう問題性も検証されなければならないとは思うが、捜査、公判に携わる「人」の問題は、かつてそこに身を置いたことがあるだけに、気になるところではある。