クロ現元キャスター・国谷裕子さんが明かす、NHKで取り上げられなかったあの「問題」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170125-00010003-bfj-soci&p=1
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170125-00010003-bfj-soci&p=2

2016年3月17日の最終回を前に、国谷さんはこの23年間での社会の変化の一つとして、「不寛容な空気」の浸透をあげる。
「一人ひとりの個性が大切だと言いながら、組織の管理強化によって、社会全体に『不寛容な空気』が浸透していったのではないだろうか。<クローズアップ現代>がスタートしたころと比べて、テレビ報道に対しても不寛容な空気がじわじわと浸透するのをはっきりと感じていた」

私は昭和39年生まれで、昭和62年に大学を卒業して平成元年に検察庁に入ったのですが、自分が大学生の頃までの日本と、その後にバブル崩壊を経て今に至る日本は、かなり状況が変わってきたなという印象を持っています。昭和の終わりまでの日本は、戦前、戦中派の人々が社会の隅々まで、まだ残っていましたし、今振り返ってもそれらの人々に重みがあって(年配でにらみが効いていたということもあるでしょう)、昨今で「歴史修正主義」と言われているようなことは許せないし許さないという社会全体の暗黙の合意のようなものがあったような気がします。冷戦崩壊前は特に左翼勢力の勢いが強く、そういう論調には賛成できないものの日本が行ってきたことに思いを致す時に、そういう論調にも謙虚に、寛容に臨まなければならないという意識も強かったように感じます。
その後、次第にそういった戦前、戦中派は亡くなり、戦争体験のある人も減ってきて、戦後派が社会の中で多数を占めるようになり、また、戦後の日本が、自らの力、手で徹底的に敗戦までの行いを総括できなかったことなども手伝って、バブル崩壊後に続く低迷の中で、次第次第に社会の中にかつてあった主流的な意識も変容し、国家主義的、歴史修正主義的な論調が、耳ざわりの良さも手伝いつつ、人々に受け入れられやすくなってきたのが、おそらく現状でしょう。元々、長いものには巻かれろとか、多数に同調しやすい国民性もあり、孤立を恐れず自分自身の意見をはっきり述べるタイプは「協調性がない」などと孤立する(させられる)カルチャーもあって、上記のような「不寛容な空気」といったものへとつながっているように感じるものがあります。
私自身は、これで良いのだろうかと思うものがあり、今後も思うところ、言うべきと感じることは言いたいと考えていて、国谷氏の著書も読んでみたいと考えています。