田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像 (中公新書)

田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像 (中公新書)

田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像 (中公新書)

昨秋に買って、ぽつりぽつりと読んでいたのですが、昨日、やっと読み終わりました。新書にしては分量が多い上、丹念に書き込まれていて(著者の意気込みの現れでしょう)、なかなか歯ごたえのある内容でしたが、中身が濃く、読んで良かったと思える内容でした。
私の記憶の中にある田中角栄は、今太閤、コンピューター付きブルドーザー(と当時は言われていました)などともてはやされて首相に就任したあたりから始まり(当時の私は小学校低学年でした)、その後、金脈問題で退陣、ロッキード事件で逮捕、闇将軍(と当時は言われていました)として君臨、突然の病気で倒れ政治生命を失い寂しく死去、という流れが、その時々の姿とともに思い出されます。今では信じられないような話ですが、刑事被告人でありながら、「親田中」の法務大臣を次々と送り込み、ある法務大臣とは、国会の議場で田中角栄が歩み寄って握手する(パフォーマンスだったのではないかと思いますが)ということもあるほどで、立花隆氏によると、指揮権発動による公訴取消の可能性が現実的に存在した、というのもうなずけるものがあります。
私自身が、法曹の道を目指し最初は検事の道を選択したのも、田中角栄的なものに対する敵愾心、社会を正しく維持したい、といった正義感の強い若者特有の心情に影響されるところがかなりあったように思います。
田中角栄の死後、約20年が経過し、この本を読んで感じたのは、副題で「戦後日本の悲しき自画像」とあるのが、正に田中角栄の人生そのものだったのではないか、ということでした。戦後の焦土から復興した日本にとって、様々な問題(特に金について)を抱えながらも生活を豊かにしてくれる田中角栄のような存在は何物にも替えがたく、また、日本中の至るところに大小様々な田中角栄的な人物が存在していたと言っても過言ではないでしょう。しかし、本書の中でも指摘されていますが、衣食住が足りてきて礼節が重視されるようになれば、田中角栄的なものに確実にメスが入れられることになってくる必然があり、ロッキード事件は、正にそういった存在ではなかったか、という気がします。「クリーン」を標榜してロッキード事件解明に政治生命を賭けた三木武夫首相の存在も、そのような文脈で見られるべきでしょう。
田中角栄は、こうして、戦後の昭和の時代を、波乱万丈で駆け抜けて逝きましたが、現在のような政治、経済での閉塞状態にあると、今、田中角栄のような人物がいれば、という声が大きくなるのもよくわかります。しかし、あのような人物は、戦後の、昭和の日本であるからこそ生み出されたもので、もう、あのような人物はで出ない(出せない)と思います。とは言え、田中角栄を知る人々(私を含め)は、今後も、田中角栄の幻影のようなものを、どこかで見ながら生きるのでしょう。
本書は、田中角栄のすぐそばにいて肉声を聞く機会が多かった元政治記者によるものだけに、従来はなかなか取り上げられていなかったような田中角栄の肉声、心情といったものが随所に盛り込まれている上、人間的な魅力、人としての器の大きさ(特に金の面での問題点、欠点にも目を向けつつ)も描かれていて、日本の戦後政治史を振り返りながら田中角栄の生涯をフォローできる、とても参考になる一冊であると思います。こういった分野に関心がある方にお勧めします。
あの、自信満々の表情でのだみ声を、生で再び聞いてみたいですね。