「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書2章14節

http://hitotsubu-no-mugi.blogspot.jp/2010/12/214.html

彼は貧しい家庭に育ち、自分で会社を起こすも、何回も失敗し、無一文になったとき、つい、レストランで無銭飲食をしてしまいます。財布を落としたとごまかそうとすると、レストランのオーナがテーブルの下から20 ドル札を見つけたふりをして彼に差し出し、「あなたのでしょう」といいました。彼は罪悪感でいっぱいになり、「いつか、自分が人を助けられるようになったら、そうします」とお祈りをしました。その後、ラリーは事業に成功し、現金を貧しい人に配りました。困っている人に、お金を渡すのはお金持ちとしての使命であり、このことから与える喜びとキリストの犠牲愛を示したかったのだと言います。

今夜はクリスマスイブでした。上記の聖書の言葉で検索していると、上記のエントリーが目にとまり、こういう、レ・ミゼラブルに出てくるようなことが、現代でもあることに、強い印象を受け、このレストランのオーナーのような、心の温かい、良い人というのはいるものだと、しみじみ感じました。
私は、社会に出た後、ずっと法律の世界で生きてきて、法律、ルールにより物事が律せられて行く峻厳さや、そういった機能の重要性といったことを、ずっと感じながら生きてきました。ただ、それで、人間の持つ矛盾や葛藤といったことがすべて解決されるわけでもなく、必ずしもルールには沿わないところで人が救われ再生して行く、ということも、あるのではないか、ということも感じています。そういう感じ方が、最近、徐々に強くなってきているのは、年を取ったせいでもありますが、私が、いろいろなことを見て、経験してきたせいでもあるでしょう。
上記のレストランオーナーは、無銭飲食の犯人であると、客を警察に突き出すこともできました。しかし、彼はそれをせず20ドル札を差し出しました。それがその客を大きく生かすことになり、後に様々な慈善活動をさせ、さらに多くの人を救うことにつながりました。この辺は、今の政治を司る人々にこそ、是非、考えてほしいところでもあります。
こういったことを、つらつらと考えたクリスマスイブでした。メリークリスマス。