宗教界、裁判員に悩む…「人裁けるか」「正式な制度だから」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090111-00000008-yom-soci

この記事、ボ2ネタ経由で知りましたが、なかなか難しい問題ですね。

浄土真宗では、「人間はだれでも罪を犯す可能性を持つ弱い存在」と説く。僧侶や信者には「そんな自分が他人を裁いていいのか」と抵抗感を持つ人も多いが、答弁に立った同派幹部は、「引き続き検討していく」と述べるにとどまった。
同じ浄土真宗で、死刑制度に反対している真宗大谷派(信者550万人)でも昨年6月、宗派の議会で裁判員制度が取り上げられた。幹部は宗派の見解として、制度そのものに対する意見表明は考えていないとする一方、「裁判員に選ばれたら、真宗門徒として死刑という判断はしないという態度が大切だと考えている」と答弁した。

新約聖書に「人を裁いてはならない」というイエスの言葉があるキリスト教。全国で約800の教会を抱えるカトリック中央協議会は、「私的な裁きは認められないが、法治国家の正式な裁判制度まで否定はしていない。ただ、被告の人権への配慮や国民の十分な理解が必要だと思う」とする。

全国約8万社の神社を指導する神社本庁は、「国民の義務として、裁判員に選ばれたら原則参加する」という立場だ。

私自身、裁判員制度には、制度としては懐疑的な立場ですが、日本国民として日本の制度として成立してしまったものに従わないわけには行かないのも事実です。自らの良心や信条と、裁判員として裁く立場になることが、決定的に矛盾するのであれば、裁判員制度の中で、その手当は一応され、上記の記事にもあるように裁判員にならない道も用意されていますから、そのように取り扱うよう、裁判所に求めるしかないでしょう。
裁判員になるかどうかが検討される過程で、裁判官から質問を受ける機会がありますから、上記のような矛盾とか葛藤を抱えている人、特に、それにより裁判員としての職責を全うできない可能性があると感じる人は、思い切りそのことを言うべきでしょう。
そのような過程を経て、運悪く裁判員に選ばれてしまったらどうすべきか、ですが、宗教者であれば、これは神の(仏の)思し召しであると良い意味で割り切り、全身全霊をかけて適正妥当な判断をするよう努めるしかないと思いますが、難しいでしょうか。