山本五十六の「述志」発見=「対米英戦争に苦悩や覚悟」−原本2通、親友遺族宅で

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山本長官は対米英戦争にある時期まで消極的だったとされるが、平時に書かれた1通には、それを裏付けると解釈できる部分があり、県教委は「反対した戦争の指揮を執ることになった山本長官の深い苦悩や覚悟を表している」と説明している。
1通は1939年5月31日付。日独伊三国軍事同盟締結(40年)の前年で、「俗論を排し斃(たお)れて後已むの難きを知らむ」(俗論に反対して倒れるまで続けることは容易なことではない)、「此(この)身滅すへし此志奪ふ可からす」(自分は死んでもいいが、志は誰も奪ってはならない)とある。
同県立先哲史料館は「俗論は対米英戦や3国軍事同盟のことで、志はそれらに反対する意味」と説明する。
もう1通は41年12月8日付。ハワイ真珠湾攻撃に踏み切った開戦日に「大君の御盾とただに思ふ身は名をも命も惜しまさらなむ」(天皇陛下の盾となる立場であるがゆえに名も命も惜しみません)と歌を詠んでいる。同長官は短期決戦で対米英戦勝利を図る考えに変わっていたとされる。

堀悌吉元海軍中将は、海軍内における艦隊派と条約派の争いの中で、条約派として予備役に追いやられ、それについて山本五十六が悲憤慷慨していた、というのは有名な話ですね。その辺の事情は、以前、阿川弘之氏の著作(「山本五十六」「戦艦長門の生涯」など)にはまって、よく読んでいた時期があるので、私もそれなりに知っています。
上記のような山本五十六の心境の変化、その理由といったことについては興味深いものがありますが、「短期決戦で対米英戦勝利を図る」という考えは、やはり甘かったと言うしかなく、戦争により生じてしまった多大な損失を考えると、真珠湾攻撃に踏み切るのではなく、何とか全力を挙げて開戦阻止へと動いてほしかった、ということを、やはり強く思わざるを得ません。
そのあたりの行動は、幕末の越後長岡藩山本五十六が養子に入った山本家が仕えていた)の家老であった河井継之助司馬遼太郎の「峠」で著名)が、管軍との講和締結に行き詰まり奥羽越列藩同盟に加盟して北越戦争を戦い敗北した経緯と似たところがあり、その点でも興味深いものがあります。