「峠」の舞台、越後長岡へ

週末、情報セキュリティワークショップin越後湯沢2014へ行ったついでに、ちょっと足を伸ばして越後長岡へ行ってきました。司馬遼太郎の「峠」

の舞台です。また、連合艦隊司令長官在職中にブーゲンビル島で戦死した山本五十六の郷里でもあります。

父 山本五十六 (朝日文庫)

父 山本五十六 (朝日文庫)

「峠」では、長岡藩の総督であった河井継之助が華々しく描かれていますが、その前に書かれた同じ著者の短編「英雄児」では、無謀な戦争を選択したことで長岡が焦土と化し民衆が苦しんで河井継之助を恨んだことが生々しく描かれています。今回の見学で、長岡市街から少し離れた場所にある長岡市北越戊辰戦争伝承館を見学し、そこから、長岡城奪還作戦で長岡藩兵が夜陰に紛れて渡った旧八町潟も遠望したのですが、

見学後に、八町潟についてネットで見ていると、

http://www.pref.niigata.lg.jp/nagaoka_nourin/1280343919840.html

では、

江戸時代末期、慶応4年(1868)の1月に始まった薩長勢と徳川勢の戦い(鳥羽伏見の戦い)は、北越戊辰戦争としてこの長岡地域にも及びました。長州軍に長岡城を占領された河井継之助は、6月22日、この八丁沖の湛水を利用して城の奪還を計りました。その戦法は、地域農民のことを考えることなく、猿橋川唯一の信濃川からの逆水止、閘門を壊し、八丁沖の湛水によって奇襲する戦法でした。時代は明治に入り、閘門を破壊された農民は、農地を守るため、互いに堤防のかさ上げを競い、鍬や鎌を持ち出しての流血騒動にさえ発展することもありました。

とあって(この場面は「峠」のクライマックスシーンですが、同書では上記の「地域農民のことを考えることなく」といった点はまったく触れられていません)、北越戦争が長岡藩の能力をはるかに超えた、住民を大きく犠牲にした戦闘であった、ということが改めてうかがわれました。
北越戊辰戦争伝承館のそばに、海軍中将時代の山本五十六揮毫による「戊辰戦蹟記念碑」が今でも残っています。

山本五十六(山本家は長岡藩の家老の家系で、その家名を絶やさないため高野家から養子に入って山本五十六になったものでした)は、日米開戦にあたり、奇しくも、河井継之助と似た立場になり、同様に悲劇的な最期を迎えましたが、彼らが、今の日本を見たら、はたしてどのような感想、意見を述べるだろうかと、北越戦争の激戦地に立ち感じました。