神の摂理か、原爆論争再燃 永井博士生誕100年で

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080202/trd0802020845003-n1.htm

永井博士はカトリック信者の立場から「浦上が犠牲の祭壇に(中略)潔き羔(こひつじ)として選ばれた」「神の光栄を世に示すための試練」などと著書に記述。神の摂理を説く立場は反核平和思想と相いれない面もあり、博士のもとで放射線医学を学んだ故秋月辰一郎医師や、被爆詩人の故山田かん氏らは昭和30年代後半以降、批判的だった。

カトリック信者で長崎純心大の片岡千鶴子学長は「永井博士は被爆をキリストの贖罪(しょくざい)と重ね合わせることで、原爆が天罰かもしれないと苦しんでいた浦上の人々の精神の復興を目指そうとした」と反論している。

昔、遠藤周作の「沈黙」を最初に読んだ際、キリスト教の教えを信じ、過酷な拷問に耐え、次々と殉教する人々に対し、神が沈黙している不合理さ、といったことを強く感じた記憶があります。
私はキリスト教徒ではないので、私なりの解釈ですが、人間の運命というものは、多くの場合、過酷なものであり、そういった過酷な運命に対し、神は常に傍にいて見守ってくれている、運命は運命として従容として受け入れつつ、神を信じ、乗り越え切り開いて行くのが人生、ということなのではないか、という気がします。その意味では、神は沈黙しているわけではなく、遠藤周作「沈黙」のクライマックスシーンも、そのことを強く訴えている、と今の私は感じています。
永井博士の上記のような言葉は、原爆を許容するようなものではなく、博士の宗教観が色濃くにじみ出たもの、と解釈すべきでしょう。