ルーシーさん事件無罪 「状況証拠」「余罪手口」評価せず

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070425-00000025-san-soci

警視庁は「薬物を使っての乱暴」という特殊な類似手口を重視。他に被告が準強姦を繰り返していた事実を立証し、ルーシーさんへの準強姦致死罪もこの延長線上にあるとの立件手法をとった。警視庁が再三にわたって被告を再逮捕し、余罪の立証を繰り返したのはそのためだ。

「ルーシーさんが死亡するまでの間、マンションには第三者がいた可能性がある」とまで判決は推察。ルーシーさん事件に関与した疑いは推認できるとしつつも、「死体損壊・遺棄にどのように関与したのか明らかでない」を理由に有罪とはしなかった。

余罪の積み重ねからルーシーさん事件を立証しようとした捜査手法に対して判決は、「そのような事実は推認力が乏しい」と立証能力を認めず、「犯罪の証明がない」と判示した。検察にとっては痛い“黒星”だ。

専門的な話は避けますが、日本の刑事裁判実務では、証拠による事実認定の在り方として、「他に同種の余罪を犯しているということによる犯行の認定は許されない」とされる一方で(原則)、一連の犯行の手段、方法に特殊性がある場合、特殊性から犯行を推認することは許される(その限度で、例外として「余罪」による犯行認定が許容される)、とされる傾向があります(刑事訴訟法の母法である英米法でもそのように考えられているようです)。
ただ、その場合の「特殊性」は、他に犯人が考えにくい(他に犯人が「あり得ない」までは行かないとしても)程度の高度の特殊性である必要がある上(その意味で、「薬物を使っての乱暴]という犯行方法の特殊性の程度は問題になるでしょう)、あくまで、状況証拠による推認、という証拠構造下での話ですから、上記のように、「第三者」が介在した可能性が排斥できない、ということになれば、合理的な疑いを超える立証、という意味でのハードルを、なかなか超えがたくなってくるのは、ある意味で必然ではないか、という気がします。
ただ、この記事でも指摘されていますが、あくまで「証拠の評価」の世界での話ですから、評価する裁判官が異なれば、同じ証拠関係であっても、別の評価が下る可能性は当然あります。そこが、この種の証拠構造の事件の怖いところであり、手痛い無罪判決をもらってしまった検察庁の起死回生があり得るところでもあるでしょう。
その意味で、この無罪判決は1つの通過点にとどまる、という印象を強く受けます。