「実務」法曹養成と「学問」(前)

町村教授のブログ中の

「まともなopinion-法科大学院出でて研究会亡ぶ」
http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2005/11/opinion_b816.html

のコメント欄で、東馬さんという方が、

司法研修所があるのに

学問の自由がそこにはないからと
ある関係者の人は言いました。

とコメントされているのを見て、司法研修所、「実務」法曹養成ということについて考えさせられました。
語弊を恐れずに言えば、実務法曹を養成するための教育には、一種の「法律の職人」を養成するという側面があります。生じた紛争に対し、的確に事実を認定し、その一方で適用すべき法令・判例等を必要な解釈も行いながら適切に見出し、認定した事実にあてはめ、適正妥当な結論を導く、ということを、一種の職人技として行えるだけのスキルを身に付けること(それ以外にも付随的にいろいろありますが)が目標であり、そのための教育が行われます。高尚な建築理論を展開しているだけでは建物が建たないように、高尚な法理論を展開しているだけでは現実の紛争は解決できません。その意味で、「実務」(実務以外の分野があることを意識しています)法曹養成教育では、法律学という学問を究めることは目標にはならず(それが重要でない、というわけではもちろんないのですが)、上記のような意味での「職人」を養成することが目標になるでしょう。現在、そういった教育を最も効果的に行っている機関は司法研修所になりますが、そこに「学問の自由」がないというのも、その性質上、必然的と言えるように思います。
そこで、法科大学院が何をすべきか、どうあるべきか、ということが問題になってきます。従来の日本の法学部は、「法律学という学問を究める」ところだったと思います。司法試験受験、合格といったことは、法律学を究めるという「崇高な」目標に比べて世俗的、卑近なものとして貶められたり、正規のカリキュラム以外の課外授業で受験対策が講じられたり、また、受験予備校が一種の「汚れ役」になって受験対策を担ったり、といった状況の中で、法学部というものは、世俗にまみれず汚れることもなく、法律学を究める道を邁進できたと言っても過言ではありません。一種の「棲み分け」ができていたと言い換えてもよいでしょう。
それが、法科大学院というものができたことで、法科大学院という機関が、「法律学を究める」という目標と、「実務」法曹養成という目標を同時に抱え込むことになった、というのが、現状における混乱や関係者への多大な負担を生み出していると言えるでしょう。2つの目標を同時に達成するというのは、至難の業であり、特に法科大学院で学ぶ学生の立場では、「法律学を究める」前に、確実に司法試験に合格し実務法曹の道へと踏み出したいのに、法科大学院が抱える「法律学を究める」という性格が、陰に陽にそれを阻害するというのが、多くの学生の悩みの種と言えると思います。そして、教員の立場からは、上記のような2つの目標を同時に抱えていることで、1つの目標を目指していればよかった法学部時代に比べて飛躍的に負担が増大し、研究にも支障が生じているということになるでしょう。
では、この問題をどのようにして解決すべきか、ということが、今、我々が直面している課題です。

(続く)