新司法試験の回数制限について

昨日のコメント欄で、上記の点についてのコメントがありました。なかなか難しい問題ですが、少し考えてみました。
私が合格したころの司法試験は、約2万3000名が受験し、500名弱が最終合格するというものでした。極めて低い合格率で、「苦節何年」「十何年」という人が、ゴロゴロといましたし、中には「数十年」という人もいて、私の周囲では、回数無制限の一本勝負が延々と続いていました。
それだけ合格率が低いと、実力があるから合格する、というわけには行きません。ほんのちょっとしたこと(その日の体調、問題に対するちょっとした対応の誤り等々)で、相当の実力者でも不合格になってしまいます。事実、最終合格後、修習開始までの間に、アルバイトで答案の採点をやっていると、深みのある、本当に良い答案を書いている人がいて、なぜこの人がまだ受験生をやっていて、こんな答案が書けない自分が、「合格者」として採点なんかやっているんだろうと何度も思った記憶があります。そういう状況の中で、受験回数を制限すれば、何回か受験して、本来、合格しても良いのに、不運にも不合格になってしまった人が、不条理にも排除されることになりますから、決して正しいこととは言えないでしょう。
しかし、合格率が上昇し、「一定以上の実力がある人は、運不運といったものに左右されることなく、ある程度確実に合格する」という状態になれば、逆に、「そういう状態の中で繰り返し不合格になる」という人は、適性に問題があると判断され受験回数制限により排除されることにも、合理性が生じます。
また、上記のような合理性を前提に、回数制限に引っかかってしまう人は、野球でアンパイアが3ストライク取られたバッターに「ストライク、バッターアウト!」とコールしてバッターボックスから排除しダッグアウトに送り込むように、司法試験という場からは退出してもらい、別の有意義な人生を歩んでもらうということも、その人にとって、また、社会にとって、必要かつ有益ということも言えるでしょう。
問題は、上記のような、「一定以上の実力がある人は、運不運といったものに左右されることなく、ある程度確実に合格するという状態」というものを、どこで線を引いて認定するかでしょう。「もともと高い合格率と受験回数制限はセットのように思っていましたが」というコメントは、そのあたりを指していると思います。これは、どのあたりで、多くの人のコンセンサスが得られるかにもよりますから、「ここだ」と決めうちするのは難しいと思います。
私の感覚で言わせてもらうのであれば、合格率が5割を下回るような試験で、回数制限(新司法試験で予定されているような3回程度)を導入すると、、「一定以上の実力がある人は、運不運といったものに左右されることなく、ある程度確実に合格するという状態」下のものとは言い難いのではないか、と思っています。
ただ、回数無制限とか、制限するにしてもかなりの回数受験可、ということにすると、受験生が増えることにより合格率はますます下がりますし、一種の、底の見えないアリ地獄のような状態になりかねません。
最近、立命館大学の指宿先生のブログ

http://imak.exblog.jp/1365569/

で、司法研修所の廃止、ということが提案されているのを読みましたが、司法研修所できめの細かい教育を受け、そういった教育による一種の「刷り込み」に支配されているともいえる法曹の固定観念を大胆に捨て、パラダイムを転換して、司法試験を、純粋な資格試験化するということが必要になっているのかもしれません。
ただ、そういった方向へ踏み出す場合は、現在の司法研修所の2回試験(卒業試験)を、形を変えた上でより厳格化し、「完全法律家」になるためのハードルを高めに設定して、司法試験と2回試験の間に、自主的に相当勉強する必要がある、という制度作りが必須だと思います。
そうなると、2回試験で合格できない人はどうするか、という問題が生じて、一種の堂々巡りなんですけどね・・・。