「ウイニー事件で、p2p関連技術開発が萎縮しているのだろうか」を読んで考えたこと

http://www.ofours.com/bentenkozo/archives/2004/11/p2p.html

を読んで、いろいろと考えさせるものがあった。
特に、最後の、

一方、弁護人の冒頭陳述での主張からすれば、弁護人は、ウイニーの社会での有用性を説得的に証明し、社会に組み込むときのバランスを評価し、被告人の行為の正当性を立証するものと思う。弁護人の見識の深さが問われる裁判になるのではないだろうか。

という部分には、共感を覚えるともに、ここが、京都地裁で行われているwinny幇助公判の、正に、歴史の中での本質的な部分になるのではないかと強く感じた。そう感じた背景には、私自身が、日本では旗色が悪くなっている「行為無価値論」が、「結果無価値論」では突き破ることのできない限界を、この問題では突き破ることが、もしかしたらできるかもしれない、と感じていることがある。学問的には他愛ない話になると思うが、一実務法曹の雑駁な感想ということで、少し述べたい。
違法性の本質について、日本における主要な行為無価値論は、「法益侵害という枠組みの中で、行為の態様なども考慮し、より的確な違法性評価を行う」という、一種の「結果無価値・行為無価値二元論」と言えるのではないかと思う。ただ、結果無価値論と異なると思われるのは、根本のところで、「行為は行為者の仕業である」という発想があることではないかと思っている。そこが、結果無価値論者からは、徹底的に叩かれてきたところでもある。
「行為者の仕業」という発想は、マイナス面ばかりではなくプラス面も併せ有する。その仕業の有用性、長い目で見た場合の社会への貢献、といった、「目の前にある法益侵害」を超越した価値、といったものを、そこで読み込んで行くことが可能だからである。
例えば、歴史上有名な華岡青州の場合、江戸時代に麻酔薬を開発するという偉業を成し遂げたが、母と妻を人体実験に利用したことにより、妻は失明するという事態を招いている。いくら本人の同意があったとはいえ、江戸時代に京都府警、京都地検があれば、傷害罪で起訴されているであろう。しかし、現在、華岡清州に対する評価の中で、こういった「傷害」行為を犯罪視する論調はない。換言すれば、法益侵害行為を超越する行為の有用性、長い目で見た場合の社会への貢献、といったものが評価されているのではないかと思う。法益侵害性だけを見ていただけでは、華岡清州の真価を的確に評価したことにはならないし、身を捨てて人体実験に協力した母や妻も浮かばれない。華岡清州にも、麻酔薬を開発して金儲けしたいとか、有名にないたいという気持ちがあったかもしれない。そういった部分だけを取り上げ、江戸時代に京都地検の検事がいれば、「被告人華岡は、麻酔薬を開発できれば多額の金員が入手でき、また、自己の名声も手に入る、などといった野望を抱き」などと冒頭陳述で糾弾されるかもしれない。しかし、華岡清州の真の目的は、そのようなところにはなかったことは、歴史が証明している。
別の例を挙げると、赤穂浪士の場合、やったことは、凶器準備集合、銃砲刀剣類所持等取締法違反、吉良上野介邸(住居)への侵入、多数の人の殺傷、吉良上野介の首をとるという死体損壊等の犯罪を犯しており、法益侵害で見ると、許し難い大罪を犯している。しかし、今、彼らを、その法益侵害性で非難する人はいない(いてもごくわずかである)。やはり、武士としての生き方を貫き、私利私欲を捨てて主君の仇を討つという、行為の素晴らしさが高く評価されているわけで、法益侵害性を見ているだけでは、赤穂浪士の真価を的確に評価することはできない。
要するに何が言いたいかというと、上記のような意味での行為無価値論は、そういった法益侵害を超越した価値、歴史の中でのその行為の位置づけ、といったものを反映させることができる考え方なのではないか、ということである。確かに、法益侵害はしてはならないし、そういった行為を幇助すべきでもない。しかし、目の前に法益侵害というものがあっても、それを超越した価値というものがある場合に、人は行為に出るべき場合があり、そういった行為こそ、社会的に相当な行為として、違法性が阻却される場合があるのではないか。
そういった考え方を法廷に持ち込み裁判所を説得しようとした場合、正に、弁護人の見識の深さ、洞察力、歴史の中における事件の位置づけ、といったものが問われるのではないかと強く感じている。