http://blog.livedoor.jp/datusara/archives/5960942.html
で、「予備校教育は「論証暗記主義」なのか?」というテーマで論じられているのを読んだ。
実は、私は、こういった「論証フォーム」を準備しておいて、答案作成に生かす、という準備をした、かなり初期の司法試験受験生(元受験生)である。古い話で恐縮だが、前にこのブログでも紹介したように、大学3年生から4年生にかけての時期、LECの「憲法・民法・刑法論文合格講座」を、ビデオ受講して、伊藤真先生の講義を聞いた。上記のブログで、伊藤先生の、
前略)この手法は、もともとは本試験会場における答案作成時間をセーブするためのものであり、初めに答案ありきということを忘れてはならない。つまり、本試験ではその場で考えなくてはならない問題が必ず出題される。そのときに事前に準備できる部分はあらかじめ準備しておいた方がその問題固有の論点を考える時間が作り出せる。そして答案を書くためにはこうして論点を学ぶことは必要であるが、それだけでは答案にはならない。答案構成能力や問題提起、あてはめという部分を書く力がついて初めて答案になるのである。
また、この論証は丸暗記すべきものではない。理解したらキーワードとその流れを記憶していればいいのである。自分が論証をするときの手がかりになればいいのである。そして、最終的には自分の言葉で論証できるようになればしめたものである。
逆に、暗記が得意な方は注意が必要である。どうしてもできあいの論証を暗記してしまおうとする。もちろんそれでも何もないよりはましであるが、とうしても理解よりも暗記に走ってしまい、自分で使いこなせなく傾向がある。(後略)
という解説が紹介されているが、私が当時聞いた話も、これと全く同一だったと思う。その点、伊藤先生の主張は約20年前から一貫しているということになる。
当時は、まだ、こういった勉強は一部の受験生しか行っていなかったと思う。予備校のテキスト自体に論証フォームが掲載されている、ということも、記憶ではほとんどなくて、私の場合、LECの中や、水道橋の丸沼書店で売っている、LECが出した科目別の論証フォーム集(小冊子のような感じの薄いものだった)を買ってきて、一応、参考にしていた。「一応」というのは、実は、出来が悪くて、そのまま使えるものは少なく、それらを参考に、あるいは、独自で(と言っても、全くの独力では無理なので、基本書の表現を使ったり答練の答案例を参考にしたりして)、論証フォームを作成したからである。いわゆる「京大カード」を文房具店で買い、できるだけカードの表だけでおさまる程度の分量の論証フォームを、まず苦手な民法から始めようと思い、こつこつと作成して、合格直前には民法で200枚弱のカードを作成していたと思う。
こういった作業をする中でメリットがあると思ったのは、伊藤先生が指摘されているような点に加えて、
1 自分で考えて作成するので、文章力が向上する
2 錯綜した議論であっても、「論証」という形で一枚のカードにまとめるので、頭も整理できる
3 カードの裏に、論点に関する参考事項を書いておけば、下手なサブノートを作成するよりも役立つ
といったことであった。
民法について、比較的大きめの論点に関する論証カードが一通りできたので、他の科目にも広げようと思い、大学4年生の時の論文試験終了後は、合格しているとは夢にも思っていなかったこともあって、大学の学生読書室にこもり、論証カード作成に励んでいたが、その年に合格したのでそういった作業は不要になった。民法の論証カードは、後輩に譲ってあげた(その後輩も、その後間もなく合格した)。
私のような方法で論証カードを作成すると、作成するときに相当考えているので、「暗記」ということを意識しなくても、時々取り出して読んだりしてるうちに、なんとなく表現は覚えてしまう、という感じであった。一字一句、論証カードの通りに答案に書く必要もないし、キーワードを参考にして、その論点について書く必要があれば、大体そういった内容で書けるという状態にしておけば十分だったと思う。
今振り返ってみても、こういった勉強方法や試験準備が間違っていたとは思わないし、ある程度早期に合格する上では、有効な方法であったと思う。ただ、新司法試験について、このような形で準備する必要があるかどうかということになると、やや疑問は感じる。おそらく、新司法試験では、現行司法試験のように、時間に追われながら答案を書くといった形式にはならないと予想されるからである。
「論証暗記主義」の弊害が上記のブログでも取り上げられているが、確かに、予備校が悪いと言うよりも、受験生の中で、思考することを放棄して丸暗記に走る人がいて、そういった人が、合格者の増加という流れの中で時々合格することもあり、合格すると、そういった間違った勉強方法を、あたかも成功への近道であるかのように吹聴することで悪弊が広まる、という側面があるのではないかと推測している。