調書採否、当面の焦点=「4億円の性格」で対立―小沢元代表公判

http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201110060007.html

小沢一郎元代表の公判で、指定弁護士側は「虚偽記載を小沢元代表に報告し、了承された」とした石川知裕衆院議員らの供述を、共謀を示す「直接証拠」として挙げる。弁護側は、これらの供述の任意性を否定しており、裁判所が結審前に示す供述調書の採否の判断が、当面の焦点となる。
指定弁護士側はこれに加え、秘書が独断で行動することはなかったことなど、共謀を推認させる多数の状況証拠を積み上げている。別の裁判官による石川議員らの公判では、小沢元代表への報告・了承を認めた供述調書は検事の取り調べに問題があったとして証拠採用されなかったが、状況証拠から有罪が言い渡された。小沢元代表の審理を担当する裁判官が、状況証拠をどう評価するかも注目される。

指定弁護士の冒頭陳述を読んでいて、まず感じたのは、秘書らから小沢氏への報告や小沢氏による了承、といった場面が繰り返し出てくる、その場面について、どこまで「具体的な」報告があり、それについて了承したか、ということでした。その場面については、上記の記事でも出てくる供述調書が唯一の証拠になっているはずで、その採否が今後の焦点になりますが、検察庁が嫌疑不十分という処分をしていることから推察すると、報告や了承の内容が具体性に乏しく、これでは到底共謀は認定され得ないだろう、と検察庁が判断した可能性が高いと思います。朝日の別の記事でも、検察幹部のコメントとしてそのように述べているものがありました。仮に、調書が採用されることになっても、裁判所が、それによりどこまで共謀を認定するか、という問題は大きく残ると思います。
指定弁護士が挙げる、共謀を推認させる間接事実(状況証拠)は、私なりの見方としては、それだけでダイレクトに共謀を推認させるには程遠く、上記の供述調書を支えるもの、という位置づけと捉えるのが、従来の、堅実、慎重な刑事裁判における事実認定の在り方ではないかと思いました。先日の大久保氏に対する有罪判決の際の共謀認定にあたって考慮された状況証拠よりも、さらに上位にいて政治資金収支報告書の作成、提出からは遠い位置にいる小沢氏について、指定弁護士が主張するような状況証拠を駆使するだけで共謀や虚偽記載(が認定されるとして)の故意まで認定することは、大久保氏以上に困難ではないかと思います。
とは言え、何が起きるかわからないのが裁判ですから、例えば、薄い供述調書と、あやふやな状況証拠の、合わせ技一本で裁判所が有罪を認定する、ということが、起きないとも限らず、有罪、無罪については、無罪の可能性が高くはあるものの、予断を許さない公判になるのではないかと思います。
公判後の記者会見における、余裕を失っているように見える小沢氏の言動も、そういった懸念の現れかもしれません。

2011年10月07日のツイート

証券取引法(平成18年改正前のもの)167条2項にいう「公開買付け等を行うことについての決定」の意義

いわゆる村上ファンド事件に関する、最高裁第一小法廷平成23年6月6日決定ですが、判例時報2121号34頁以下に掲載されていました。
上記の「決定」については、1審判決で、

村上ファンド事件1審判決・残る法律上の問題点(日経産業新聞の記事に関連して)
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070722#1185033915

でコメントしたように、「実現可能性が全くない場合は除かれるが、あれば足り、その高低は問題とはならない」とされたのに対し、2審では、

<インサイダー>村上世彰被告に猶予付き判決 東京高裁
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090203#1233640330

でコメントしたように、

決定に係る内容(公開買い付け等、本件でいえば、大量株券買集め行為)が確実に行われるという予測が成り立つことまでは要しないが、その決定はある程度の具体性を持ち、その実現を真摯に意図しているものでなければならないから、そのためには、その決定にはそれ相応の実現可能性が必要であると解される。その場合、主観的にも客観的にも、それ相応の根拠を持ってそのよう実現可能性があると認められることが必要である。

という判断が示され、広すぎると思われた1審の判断を、ある程度限定する判断が示されていました。
しかし、最高裁は、

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110608110039.pdf

の通り、

同条は,禁止される行為の範囲について,客観的,具体的に定め,投資者の投資判断に対する影響を要件として規定していない。これは,規制範囲を明確にして予測可能性を高める見地から,同条2項の決定の事実があれば通常それのみで投資判断に影響を及ぼし得ると認められる行為に規制対象を限定することによって,投資判断に対する個々具体的な影響の有無程度を問わないこととした趣旨と解される。

とした上で、

したがって,公開買付け等の実現可能性が全くあるいはほとんど存在せず,一般の投資者の投資判断に影響を及ぼすことが想定されないために,同条2項の「公開買付け等を行うことについての決定」というべき実質を有しない場合があり得るのは別として,上記「決定」をしたというためには,上記のような機関において,公開買付け等の実現を意図して,公開買付け等又はそれに向けた作業等を会社の業務として行う旨の決定がされれば足り,公開買付け等の実現可能性があることが具体的に認められることは要しないと解するのが相当である

という判断を示し、本件で、そのような意味での決定があったとしています。1審の判断に戻ったと言ってよいでしょう。
最高裁が指摘する、規定の性格に関する、「規制範囲を明確にして予測可能性を高める見地から、同条2項の決定の事実があれば通常それのみで投資判断に影響を及ぼし得ると認められる行為に規制対象を限定することによって、投資判断に対する個々具体的な影響の有無程度を問わないこととした趣旨」ということは、1つの理屈ではありますが、あまりに形式論に過ぎていて、人の行動の自由を制約するする度合いが強くなりかねず(外形上「決定」があれば、それを知ってしまった以上、取引が制約され、決定が存在し続ける以上、制約は解かれない、ということになりかねない)、今後に禍根を残したのではないかと危惧されるものがあります。
その点について慎重な見方をした、東京高裁における2審判決をうまく汲み取った規範定立がされなかったのは、残念という気がします。