ミクシィ:住所、名前を知らない「知人」に年賀状 郵便事業会社と連携

http://mainichi.jp/life/electronics/news/20081028mog00m100019000c.html

同サービスは、年賀状を送りたい相手とデザインのひな型をミクシィ上で選び、コメントを書きこんで登録すると、年賀状の送付の可否をたずねる通知が相手に届き、受け取る側が住所や本名を入力する。受け取りの辞退も可能。送付対象は、ミクシィ上で友人登録された「マイミクシィ」と、同じ「コミュニティ」に登録しているユーザー。

私も、毎年、この時期になると、年賀状はどうしようかと考えます。ブログで新年の挨拶をして、あとはEメールでやり取りしようかと思うのですが、皆が皆、Eメールを使っているわけではなく、また、年賀状を送っていただいた方にEメールで挨拶、というのも、何となく味気ない感じもして、結局、100枚くらいの年賀状を印刷して作り、年末にかけて準備し発送する、ということになっています。
上記の記事にあるミクシィのサービスは、こういう私のような、「紙」の年賀状と決別できない人にとっても役立ちそうな気がします。

死刑囚刑執行 「分からないまま終わった」 今も残る「なぜ娘が」 遺族、心の傷深く

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/56341

「なぜ娘が被害に遭わなければならなかったのか。娘はどんな気持ちだったのか。なぜ…。知りたいことが今でもたくさんあったのに」。被害者の1人、梅野裕莉ちゃん=当時(7つ)=の母親(43)は、刑執行の知らせを受けて「分からないまま、これで終わったのか」と言葉を詰まらせた。

2名の女児が殺害された事件として、私もよく覚えていますが、被告人が最後まで否認を続け、否認のまま刑を執行されたという点でも印象に残る事件と言えるでしょう。
死刑制度の存廃について、私としては、どちらとも判断がつかないままで、今でも考え、今後も、おそらくずっと考え続けることと思います。ただ、死刑廃止の立場にまで踏み切れないのは、上記の記事にあるような被害者やその遺族の心情や罪の重さということを考えた場合に、命をもってしか償えないような重大な犯罪というものが、やはりあるのではないか、という気持ちを払拭、否定しきれないからではないか、という気がしています。
日本国民一般(私もその一人ですが)の素朴な感情の中にも、こういった部分があって、それが、死刑制度存続賛成が過半数を占めるという現状に結び付いているのかもしれません。

刑事裁判に被害者参加 弁護士報酬巡り財務・法務省対立

http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY200810290159.html?ref=rss

報酬基準は、1件あたりの基礎報酬と公判1回ごとの加算部分で構成する。法テラス側は「被害者との信頼関係を築くには長時間の打ち合わせが必要」として、基礎報酬は被告人の国選弁護士の最高額10万円を「少し上回る額」を設定。一方、加算部分は「裁判での権限は被告人の弁護士に比べて限定されている」として低めに抑えたという。
しかし、こうした要望に対し、厳しい財政状況を背景に財務省側がなかなか首を縦に振らないようだ。財務省主計局は「重要性は認めるが、国選制度は国民の負担になる。業務量に見合った額にしないといけないし、初めての基準でもあり、もう少し協議が必要」と慎重な姿勢だ。

以前から、本ブログで何度かコメントしていますが、日本でも、公設弁護人事務所を設立し、裁判官・検察官と同程度の待遇で弁護士を雇用して、上記の記事にあるような業務を含め担当させる、ということを真剣に検討すべきではないかと、改めて強く思いますね。
従来、国選弁護にしても他の公益性が高い業務にしても、弁護士のボランティア精神に大きく依存している面が多分にありましたが、そういった業務が拡大し、また、内容についても充実したものがより求められれば、ボランティア精神に大きく依存するのは無理であり、担当する人々をそれなりに処遇しつつ、良質なサービスを提供できる体制を整備する必要性がますます高まってきます。その意味で、従来のように、財務省と折衝しています、予算をつけてもらうように頑張っています、ということでは、もはや済まないところまで来ているのではないか、という意識を、多くの関係者が、まず持つべきでしょう。

模範六法 2008 平成20年版(iPhone / iPod touch 用アプリケーション)

町村教授

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2008/10/iphoneipod-touc.html

小倉弁護士

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/10/iphone-6819.html

の各エントリーで紹介されていて、早速、自慢の(?)iphoneでダウンロードして、使ってみました。
iphone(ipod touchも同様ですが)特有の、タッチしながらサクサクと使える感覚が快適で、出先でちょこちょこと見るには十分すぎるほどではないかと思いました。
最近、書店に行くと、最新版(平成21年版)の模範六法が並んでいましたが、

模範六法〈2009〉

模範六法〈2009〉

昔の模範六法を知る者から見ると、信じがたいほど分厚く、重くなっていて、とても購入する気になりませんでした。あまりにも分厚く、重くなりすぎたせいか、

模範小六法〈2009〉

模範小六法〈2009〉

も並んで売られていて、こちらのほうは、私が大学生当時の模範六法にサイズが似ているように思いましたが、「紙」である限り、情報量が多ければ嵩張るし、手軽にすれば情報量が減るという、二律背反的な状況から逃れられません。その点、iphoneipod touchで利用できる環境になれば、二律背反的な状況は一挙に解消でき、利便性にもかなり高いものがあります。
今後、法曹関係者や法律を学ぶ人々などの間で、上記のコンテンツの利用者は徐々に増えて行くのではないかと思います。

追記:

このエントリーをアップした後も、iphoneをいじくりながらも模範六法を見ていますが、条文も判例も見やすくて、かなり使えるという印象ですね。
紙のほうの模範六法に掲載されている判例は、字が細かく読みにくく感じますが、こちらのほうはそういう感じではなく読みやすさを感じます。今後、細切れの時間で、活字を読む元気がなかったりする時に、この模範六法の判例でも読むと、時間が有効に使えて良さそうだな、と思いました。

100人の20世紀〈上〉〈下〉

20世紀の終わりに出た本で、最近、書棚を眺めていたら目についたため、拾い読みしてみました。20世紀に活躍した100人について、エピソードなどをまじえながらコンパクトに紹介していて、なかなか読みごたえがありました。
21世紀の終わりまで、私は生きることができませんが、21世紀終わりになって、代表的な100人が取り上げられる時、どのような人々がそこに入るのだろうか、と思いました。20世紀の100人に比べ、小粒な人々が並ぶのではないか、その意味で、20世紀はスケールの大きな(良くも悪くも)人々を輩出した世紀であったのかもしれない、などと読みながら思いました。

故・伊藤栄樹元検事総長の著書

だまされる検事

だまされる検事

まただまされる検事

まただまされる検事

秋霜烈日―検事総長の回想

秋霜烈日―検事総長の回想

人は死ねばゴミになる―私のがんとの闘い

人は死ねばゴミになる―私のがんとの闘い

書棚の本を整理していたところ、不世出の検事総長と言われ、ガンのため昭和63年に逝去した伊藤栄樹氏の著書が出てきました。上記のうち、「秋霜烈日」は、先日、事務所にきた女性記者が興味を持っていたので、貸し出し中です。
それぞれを、すこしずつ拾い読みしてみましたが、非常におもしろく、伊藤氏のスケールの大きさや思索の深さ、といったことが改めて感じられました。また、昭和50年代前後の検察の様子や、当時の人々が何を考えていたか、といったことがわかって、興味深いものがありました。
「ださまれる検事」を見ると、

検事は、だまされ、だまされて成長する。
(5ページ)

検事をだまして社会へ戻った者の中にだって、これにこりて立派に立ち直る人もあるだろう。
(5ページ)

捜査から公判、そして刑の執行まで、一貫して被害者とともに泣き、その被害感情を代弁できるのは、検察だけである。
(166ページ、167ページ)

といったところに、私自身が傍線を引いていて、傍線を引きながら読んでいたのは司法修習生の頃であったと思いますが、20年後にしがない弁護士になり果てているとも思わず、一生懸命、理想に燃えて本を読んでいた頃のことが懐かしく思い出されました。