無罪になった可能性のある人は他にも? 信者の取り調べにあたった元検事が明かしたオウム裁判の難しさ

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当時、東京地検公安部の検事として、信者たちの取り調べも担当した落合氏は「本件でも問題となった"認識"(故意)については、当時もかなり厳しいと感じることがあった。"ワーク"(修行の一環)として色んなことを命じられていたが、"言われたことに疑問を持たずやることが信者としての務めだ"という形だったので、何かを運べとか、どこかに行って来いと言われた時に、それがその犯罪のどの部分を担当しているかについて、全く分かっていない信者も多かった。しかし、"何かおかしなことをやっているな"と感じていた部分もある。それを故意と捉えるのか、証拠上の認定が難しい事例は多かった」と話す。

オウム真理教関連の捜査が大々的に展開されていた当時から、既に20年ほどが経過しますが、当時、捜査陣の片隅にいた私にも、その後、しがない弁護士として社会の片隅に身を置きながら、こうして、時々声がかかり語ることがあります。事件としては徐々に風化しつつあっての、それでも風化しきれないものが、一連の事件にはあることを、改めて感じています。
犯罪に関する故意、認識の立証は、とても難しいものです。人違い、全くの冤罪とは異なり、この事件では被告人が犯罪に加担した客観的な事実はあり、何かのゲームのように、有罪、無罪を軽々しく語ることができない重みを感じるものがあります。
改めて、オウム真理教とは、そこで犯罪に及んだ、加担した人々とは何だったのか、このようなことが再び繰り返されないために、人々は、社会は、国家は何ができ何をすべきかが問い直されなければならない、そういうことを思いました。