http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140623/wlf14062318450021-n1.htm
信長は、四国は元親の自由にさせるとの方針から一部しか領有を認めないと変更。手紙は明智光秀の家臣斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。
手紙は1582年5月21日付で直後の6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役だった明智光秀が信長の方針転換に納得しなかったことが原因だと考える説もあり、美術館の谷一尚館長は「本能寺の変に大きく影響した要因ではないか」と話した。
本能寺の変に関する諸説を見ていると、これ、と絞ったり断定したりできない中で、この長宗我部氏に対する処遇への不満が原因だったのではないか、という説は、四国征伐が正に動こうとしているその時に本能寺の変が起きているだけに、何らかの関係があったのではないかと私にも感じるものが既に以前からありました。
明智光秀は、長宗我部氏と織田信長の間に入った「取次」の立場で、重臣の斉藤利三(春日局の実父)は長宗我部氏の縁戚関係にあり、今回発見された書面では長宗我部氏が恭順の意向を示しているにもかかわらず四国征伐の方針が変わらない、という状態には、許しがたいものがあったのではないかと推測されるものがあります。先程、NHKのニュース9では、発見された文書によると斉藤利三が長宗我部氏に対し四国の一部の領有を受け入れるように説得していたことが明らかになっているとのことで、そのような経緯を経て恭順の意向を示したものを討つ、ということは、明智光秀、斉藤利三のメンツを丸つぶれにするものでもあって、このような運命はいずれ自分たちにも降りかかってくるだろう、ひと思いにやってしまえと決意したことは、十分考えられるものがあります。
本能寺の変に関する諸説に、新たな一石を投じる、重要な発見であると、少し興奮も感じます。