「内閣法制局」 長官交代で憲法解釈は変わるのか

http://gendai.net/articles/view/syakai/143890

日刊ゲンダイ本紙は06年9月の第1次安倍内閣で法制局長官だった宮崎礼壹氏に話を聞いた。現法政大大学院法務研究科教授。憲法9条の法解釈変更に“クビ”覚悟で“抵抗”、安倍の目の上のタンコブだった人物だ。
「法制局は法律を専門的に研究して、内閣及び内閣総理大臣に意見を述べる役割を与えられています。法務省や外務省も意見を述べることはできますが、法解釈を検討して述べることをメーンとしているのが法制局です。首相にこう解釈しろと言われて、そのままに動いていたら、組織の必要はありません。法制局の意見が法律なのかといえば、そうではないが、過去の解釈の積み重ねが尊重されなければおかしいのです」

「法律、憲法の文言には抽象的な表現があります。そのため、その条文が何を意味するかという解釈が必要で、内閣法制局があるのです。そこで行われてきた解釈は絶対的ではないが、これまで積み重ねてきたものを人が代わったからといって変えてしまえば、法的安定を害してしまう。法治国家が成り立たなくなってしまいます」(元検事の落合洋司弁護士)

法治主義の対局にあるものが人治主義でしょうか。権力、影響力を持つ人が、こうと思ったことが実現されて行く、確かに、その時々の流れには乗っているかもしれませんが、その流れ自体が果たして正しいのかはわかりませんし、間違った、誤った方向へと人々を導く、「ハーメルンの笛吹き」のようなものかもしれません。
法治主義は、そうした人治主義による様々な失敗に懲りた人類が築いてきたもの、と言っても過言ではないでしょう。合意の下で成立した法(憲法を頂点として下位の、さらに下位の法令へとピラミッド状の構造になります)により物事を決めて行く、その時々の浮かんでは消える流れ、出ては消える人によるのではなく、法により物事を決める、それにより客観性や公平性が担保されるというメリットが出てきます。もちろん、法も永久不変なものではありませんから必要な見直しはすべきです。しかし、法が邪魔だから、変えられないからねじまげてしまえ、といった、読売新聞、産經新聞的な発想では、法治主義は成り立たなくなります。
日本で、法治主義、法の支配を最終的に担保するのは違憲法令審査権も有する裁判所ですが、裁判所は、具体的な事件になったものに対してしか判断できないという限界を持ち、そういった具体的事件に発展していない憲法問題を審理する憲法裁判所を持たない日本では、内閣(行政権)が違憲の方向へ暴走しようとする際に、法制度として止める機能を、唯一、持っているのは、内閣法制局でしょう。過去の内閣も、そうした内閣法制局の機能を認識、尊重してきたからこそ、憲法解釈を巡る政府見解が右に左に大きくぶれることなく今に至っていると思います。そして、それは、諸外国に対しても、一定の信頼感、安定感を与えてきた側面もあるでしょう。
その意味で、内閣法制局長官を、法制局勤務経験もない、国際法程度しかわからない外交官にすげかえ、従来、政府が営々と積み重ねてきた憲法解釈を大きく変更させ(端的に言えば「ねじまげ」)ようとしている現政権の動きには、極めて危険なものがあり、日本の憲政史上、あれが終わりの始まりであったと歴史の上で語られる由々しき事態になりかねないものがあると、私は強く憂慮しています。