http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121209/waf12120907000000-n1.htm
20代の女性は「精神的に耐えられるかどうか、不安だった。泣きながら家に帰った日もあったが、今はホッとしている」。
理由の一端として、当時被告と同棲(どうせい)していた元会社員(49)が「事件直後に被告はずぶぬれだった」と述べた証言の信用性を認めた。その上で「寒い時期にずぶぬれだったのは被害者を溺れさせた以外に説明がつかない。犯行時間帯に被害者と一緒にいたのは被告だけ」と指摘した。
この事件については、鳥取にいるマスコミ関係者から、何度か、コメントを求められ、その関係で、マスコミから提供された資料(記者が法廷でのやり取りをメモしたものなど)を読んでいたので、記事でだけ読むよりは、私が接した情報は多かったのですが、裁判員が接した証拠の量は、もちろんそんなものではなく、膨大なものであったはずです。上記の記事で、泣きながら帰った日もあった、とあるのを読んで、頭が下がる思いがしました。こういう人が、大都会ではなくても、さりげなく住んでいて、裁判員になればその職務をしっかりと果たすことができる日本という国は、やはり、優秀な人々が住む優れた国と言って過言ではないでしょう。
私が読んだ資料でも、様々な事情が、被告人の犯人性を指し示していて、私は有罪、無罪という判断を示す立場ではないものの、取材してきた記者には、検察の立証構造が相当強固で、弁護人の、第三者が犯人という主張も、可能性、可能性、可能性といった可能性の組み合わせの上にあって脆弱なもので、検察の証拠構造を崩すのは難しそうだ、という印象を述べていました。今後、上訴審でどういった判断が出るかはわかりませんが、被告人、弁護人が現在の劣勢を跳ね返して逆転させるところまでこぎつける、そのハードルはかなり高いでしょう。
以前から、私は、こうしたハードな刑事事件を裁き切って、初めて、裁判員裁判は有効に機能するものと評価される、と言ってきましたが、まだ結論を出すことは難しいとしても、かなり、そのような意味で評価される方向で進みつつある、という印象は受けるものがあります。