千ページの証拠資料・条文勉強…検察審査会の経験者証言

http://www.asahi.com/national/update/0722/TKY201007210634.html
http://www.asahi.com/national/update/0722/TKY201007210634_01.html
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審査は隔週で、午前中から午後4時ごろまで。付箋(ふせん)をつけながら資料を読み込むだけで、数回を費やした。審査のポイントは事務局の職員が説明してくれた。証拠書類はもちろん、自分のメモも持ち帰れない。「事件について書かれた新聞記事を読んでもいいが、影響されないように」と事務局から注意を受けた。

検察審査会における審査の様子が垣間見えて興味深いですね。
興味深いと感じると同時に、気になったのは、審査員が述べたという

一方、鳩山氏とは別の政治家を審査した市民も、取材に応じた。特捜部が政治家を聴取したのは1回だけで、「特別扱いではないか」と感じたという。「一般の事件は、被害者と加害者がいて、どちらの言い分が正しいかを考える。しかし、政治家の事件は、被害者は自分も含めた国民。加害者を保護する気にはならないので、厳しい結論が出やすい」と、審査する市民の心理を説明する。
審査会が2度「起訴すべきだ」と判断すれば政治家でも強制的に起訴される仕組みについてはこう話す。「11人の市民が2回も審査したら、有罪の可能性があるのは間違いない。検察という閉ざされた場で終わらせず、裁判という公の場で主張を出し合い、結果として無罪となってもそれでいいのでは」

という感想で、「政治家の事件は、被害者は自分も含めた国民。加害者を保護する気にはならないので、厳しい結論が出やすい」では、感情に動かされていることになりかねず、「検察という閉ざされた場で終わらせず、裁判という公の場で主張を出し合い、結果として無罪となってもそれでいいのでは」では、起訴というものの重み、結果的には無罪になっても、それまでに失う様々なものの重大さを軽視しているという批判を免れることはできないでしょう。
起訴について、検察庁のように有罪の確実な見込みがなければ起訴しないという基準と、結果として無罪になってもいいという基準の、まったく異なる基準が併存しているという状況は、どこかで是正しないとまずいという気がします。