特捜検察は必要か

特捜検察は必要か

特捜検察は必要か

本日発売のようです。私もちょっと登場していて、独白しています。岩波書店の人から聞かれるままに、ずっと語ったものを文字に起こした形になっていますが、文字に起こした後に手を入れたのはごくわずかなので、ほぼ私の肉声になっています。拙いところもあるかもしれませんが、一生懸命語ってはいます。
岩波書店から送ってもらい(ありがとうございました)、まだ精読はしていませんが、いろいろな人が意見を述べていて、検察庁、特捜部というものの在り方が問われている今、さらに議論を深め、より良い制度にするため、参考になる1冊になるだろうと思っています。

2011年03月30日のツイート

’11裁判員:初の全面無罪を破棄 覚醒剤密輸「1審は事実誤認」 東京高裁実刑判決

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110331ddm041040064000c.html

被告は「土産物として缶を預かっただけで中身は知らなかった」と主張したが、小倉裁判長は渡航目的や缶の入手経緯に関する供述が変遷していることから「説明が通用しなくなる度にうその話を作っていたことになり、中身を知らなかったという弁解も信用し難い」と指摘した。
そのうえで被告が缶の中身を確かめなかったり、別の覚醒剤密輸事件で逮捕された知人が渡航費用を負担した点などを「中身を知っていたと認定する証拠になり得る」と判断。状況証拠を総合して有罪認定し、「利得のために社会に害毒を拡散することをいとわない態度は非難を免れない」と量刑の理由を述べた。

私自身は、元々、裁判員制度というものに懐疑的なので、裁判員制度を何だと思っているんだ!と、目くじら立てて怒る気持ちにもならないのですが、こういった事実認定に微妙さがあるケースで、実際に被告人や証人の話を直接聞き、裁判員と裁判官が検討して出した結果が、主として記録しか見ていない高裁により破棄され、無罪が有罪になるようでは、裁判員制度を何のためにやっているのかわからなくなるでしょう。マスコミは、市民の目線が裁判に反映される、などと裁判員制度を散々礼賛してきていますが、これでは、皆で集まって無駄な労力をかけ思い切り間違っているだけ、ということでしかなく、馬鹿らしさだけが残ります。
裁判員裁判における事実認定については、1審の判断を最終のものにして、被告人、弁護人からの控訴、上告について誤判救済の観点で職権発動ができるだけ、ということにしないと、今後も、上記の記事にあるようなケースが続出する可能性が高く、国費をかけ制度を維持する意味が見出し難いと思います。

なぜ女川原発は無事だった 津波の高さは福島と同程度

http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY201103300517.html
http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY201103300517_01.html

「余裕」が最も表れているのは、原子炉建屋の海面からの高さだ。同原発の主要施設の標高は14.8メートルあり、10メートル前後だった福島第一より高い。女川原発は2号機の熱交換器室が浸水の影響で使えなくなった1系統を除き、非常用電源が正常に稼働した。施設の位置の高さが津波の被害を防いだ可能性があるという。

ただ、津波対策として原発を海面からより高く建設することは容易でないという。原発は大量の冷却水を必要とするため、海水面近くに造らなければならない。核燃料や運搬時に燃料を包むキャスクなど、何トンもの重量がある荷物は船で敷地内に運び込まれることが多く、建屋の標高が高くなれば、作業がそれだけ困難になるという面もある。

単純に結果だけ見て比較はできないようにも思いますが、一方は巨大津波に耐え、もう一方はその津波と同程度の津波で壊滅し世界を憂慮させる深刻な原発危機、という事態を見ると、前者から教訓を引き出し学ぶべきところは大きいと言うべきでしょう。
今後、原発を全廃せず一定の範囲内で維持するのであれば、それを海岸近くに維持する以上、徹底した津波対策は不可欠で、女川原発は1つのモデルになる可能性が高いと思います。

「赤プリ」が55年の歴史に幕 当面は震災被災者受け入れ

http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011033101000545.html

1955年に開業。故丹下健三氏が設計した翼を広げたような外観の40階建ての新館が83年に誕生し、上層階の客室からは東京の夜景を一望できただけに「バブル期は顧客であふれ返る状況だった」

あの新館が、私が大学に入学した1983年にオープンしたことは、この記事で知りました。大学生当時は、法律書を詰め込んだ重いバッグを持ち、大学内をうろうろしたり予備校に行ったり、といった生活でしたが、自分が手の届かない、はるか上のほうの彼方で、自分にはとても経験できないような、豊かで楽しい生活をしている人々がいる、そういった人々が華やかに集う場所、というのが、当時の赤坂プリンスホテルに対する自分の持つイメージであったような気がします。
若く、貧しくも燃えていた私も、今や、なか卯で牛丼やカツ丼を細々と食べ豚汁をつけて喜んでいるような中年のしがない弁護士になり、華やかだった赤坂プリンスホテルも、バブルの絶頂と崩壊を経て、未曽有の大震災や原発危機の中で閉館するに至り、時代の流れをしみじみと感じます。