南日本新聞の記事を盗用、回収へ 辻前衆院議員の著作 志布志・県議選事件

http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=8552

同代表が辻氏の話を聞き書きし原稿化した際、分量が足りず事実関係を肉付けするため記事を引用したという。辻氏は原稿に目を通したが、引用元の記載や転載許可の有無についての確認はしなかったという。

そもそも、本の作り方が粗雑すぎるのではないか、という印象を受けますね。タレント本等であればともかく、弁護士が、自分自身の著書として世に問うのであれば、内容について責任が持てる書き方、作り方をすべきであり、それができないなら、本など出すべきではないでしょう。
私が、この手の本をもし書けば(書きませんが)、性格上、事実関係を綿密に調べ始め、資料を精査しだして、その上で徹底的に書き込んで行くと思うので、大変なことになりそうです(だから書きません)。

痴漢容疑男性に無罪 長時間取調べで任意性に疑い 東京

http://www.asahi.com/national/update/0108/TKY200801070361.html

伊藤裁判官は「逮捕直後からの長時間の取り調べで作られたもので、任意性に疑いがある」と自白調書を採用しなかった。

あれだけ痴漢冤罪事件が問題になり、次々と無罪判決が出たにもかかわらず、まだ、このような捜査を依然として行っていることに、あきれる思いですが、「長時間の取調べ」という点に着目して任意性を肯定しなかった裁判所の判断は注目されますね(他にも理由があったのかもしれませんが)。
従来は、しつこく、延々と取調べを続け、被疑者が肉体的にも精神的にも参ってしまって意に反した自白調書が作成された、という場合、具体的な暴行、脅迫等がないと、裁判所は、信用性は問題にしても、任意性は肯定してしまう傾向がありました。そういった傾向が、徐々に、取調べの本質的な問題点に目を向けつつ変わって来ているのかもしれません。

旧居保存活動に自粛求める 松本清張さんの遺族側

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008010801000862.html

福岡県によると、清張さんの長男が同日、県庁を訪れ、同会から申請されている特定非営利活動法人NPO法人)認証について慎重に審議するよう県に要請した。
関係者によると、遺族らは(1)旧居は他家の所有となって50年経過し、改装などで当時の面影は消え再現は不可能(2)松本清張は名前を使って募金活動するような行為を嫌っていた(3)「清張の会」は遺族と関係も面識もない−などを理由に会の活動を批判している。

以前、皇后陛下の生家について、保存を求める運動が、皇后陛下のご希望に沿っていない、ということが問題になり、結局、取り壊されることになった、ということがありましたが、それと似たような問題を感じます。
松本清張が世に出るまでの半生は、

半生の記 (新潮文庫)

半生の記 (新潮文庫)

を読むとよくわかります。私は、高校生のとき読みましたが(夏休みか何かで学校から出された宿題でした)、人間に対する鋭い洞察力など、清張作品を生み出す原動力となったものが、世に出るまでの長い下積み生活や、その中での様々な苦労等である、ということがよくわかる、その意味で、清張作品に興味を持つ人にとっての必読書ではないか、と思います。

被害者とともに泣く検察とは

昨日、福岡の幼児3名死亡事故について、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080108#1199757376

とコメントしましたが、テレビのニュースで、遺族(死亡した幼児の両親)のインタビューを見ていて、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060327#1143420289

でコメントしたことがある、自分が担当した交通死亡事故の被害者遺族(両親)のことを、なぜか思い出しました。福岡事件の遺族の表情が、法廷で事件の審理に立ち会っている私を傍聴席からじっと見つめていた両親の表情と、どこか似ているような気がしました。
私が担当していた事件の被害者は、20歳代の女性で、記憶では、インストラクターとかそういった仕事をしていて、記録で読むだけでも、将来に明るい希望を抱いて暮らしていたことが強くうかがわれました。そういった娘さんを、ご両親も大切に育ててきて、今後を楽しみにされていたはずであり、あれから既に15年ほどが経過していますが、今でもご両親の悲しみが癒えることはないままではないか、と思います。
刑事事件では、関与する者それぞれの立場でなすべきことがあり、それぞれの役割を果たす必要がありますが、「被害者とともに泣く」ことができるのは、やはり検察、ということは言えるでしょう。歳月が過ぎ、事件や事故が次第に人々から忘れられ、しかし、遺族や関係者にとっては癒されない悲しみが続く中で、あの時、あの検察官が、あの検察庁が、あれだけ頑張ってくれた、自分たちのことを思って精一杯やってくれた、と思うことで、少しであっても気持ちが和らぐような、そういう存在に、是非なってほしい、という気がします。
そういう、人の心の痛みがわかる、奥深さ、幅広さを持つ検察官であってこそ、なかなか獲得することが困難な、被疑者にしか知り得ない内容を含んだ決定的な自白、といったものも獲得できるのではないか、とも感じます。

福岡・幼児3名死亡事故、取材に対するコメント

▼今回の判決を受け、率直な意見をお聞かせ下さい。

危険運転致死傷罪については、危険な運転をそれと認識して行い、その危険が顕現化した場合に重く処罰する、という立法趣旨に基づいて立法され(それは、刑法中の「第27章 傷害の罪」の中に規定がもうけられていることに現れています)、元々、適用のハードルが高い構成要件になっていて、それを満たしたが故に刑も格段に重い、という構造になっています。
したがって、飲酒やひき逃げを伴う悪質な人身事故事案であっても、上記のような高いハードルは越えておらず、同罪は適用されない、というケースが生じてきます。このあたりは、国民の素朴かつ常識的な意識(飲酒して人身事故を起こし重大な結果を生じさせた場合は厳罰に処せられて当然である)と、法の現実にズレがある、という面があり、そのことが、今回の事件、判決で、非常に目に見える形で現れてしまった、という印象を受けます。

▼なぜ今回「危険運転致死傷罪」が適用されなかったか、考えられる要因は何ですか。

証拠に直接接していないため、あくまで、報道からうかがえる事情からの推測にとどまりますが、アルコール又は薬物の影響により「正常な運転が困難な状態で」ということを立証する決め手を欠いたのではないか、と思われます。
先日、先日、名古屋高裁で、一審判決を破棄し危険運転致死傷罪を適用した判決がありましたが、名古屋事件では、現場の一つ手前での赤信号無視という重大な出来事があって、その積極評価により、その次の交差点で赤信号にもかかわらず運転車両を進入させた故意を、赤信号「看過」ではなく、故意による無視、進入であると認定し、同罪の適用が肯定された(肯定できた)ものです。
これに対し、福岡事件では、そのような具体的事情が存在せず、アルコール検知結果も通常酩酊の範囲内にとどまるなど、裁判所が同罪の適用に踏み切れなかったのではないか、と思います。

▼結局今回も「逃げ得」と感じてしまうのですが。

昨年、道路交通法が改正され、法定刑が大幅に引き上げられ、飲酒運転だけでなく、ひき逃げについても、

第117条
1 車両等(軽車両を除く。以下この項において同じ。)の運転者が、当該車両等の交通による人の死傷があった場合において、第72条(交通事故の場合の措置)第1項前段の規定に違反したときは、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
2 前項の場合において、同項の人の死傷が当該運転者の運転に起因するものであるときは、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。

と、「当該運転者の運転に起因する」、すなわち、自ら事故を起こして現場から逃走したような場合は、10年以下の懲役まで科せられるようになっています。
また、福岡事件は、刑法改正により自動車運転過失致死傷罪が新設され、それまで最長5年の懲役・禁錮しか科せなかったものが、最長7年の懲役・禁錮まで科せるようになる前に発生した事件でもあります。
福岡事件が、上記のような各改正後の事件であれば、併合罪加重により、懲役15年までは科せられたはずで、その意味では、法改正の狭間で起きたことにより、国民の法感情や実態に即した科刑ができなかった、という評価もあり得るように思います。

▼「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態」を立証する為の要件は。

客観面と主観面(故意)の双方があるでしょう。
客観面については、犯行時の運転者の酩酊状態が問題になります。通常、事故発生後に、運転者が酩酊状態にあると認められれば、警察官が飲酒検知を行い、呼気中のアルコール濃度やアルコールの影響度の検証(直立できるかどうか、まっすぐ歩けるかどうか、言動の具体的内容など)を確認し記録するので、その結果が参考にされます。
それ以外の客観証拠としては、アルコール摂取量(飲酒量)、運転前及び運転時の言動(飲酒場所の関係者や同乗者の目撃状況)も問題になるでしょう。さらに、事故の態様自体が、「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態」を立証することもあります(通常なら起こりえない事故態様であって、「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態」にあるからとしか考えられない、という観点)。福岡事件では、被害車両に気づかず追突したことをもって、検察官は、「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態」にあったことの現れ、としたようですが、裁判所は、原因は脇見であると認定したようであり(したがって、「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態」の現れとは言えない)この点は、事実認定の問題として、今後、控訴審で問題になる可能性があると思います。
主観面(故意)については、上記のような客観面を、運転者がどの程度認識していたか、という問題であり、事故当時及びその前後の運転者の言動のほか、捜査時における自白の有無、その内容、公判における被告人の供述、といったことも、証拠としては考慮されるはずです。

▼被告人の事故後の飲酒検知が「0.25mg/1リットル」だった事は、危険運転致死傷罪を問う時にどの程度の影響があるか。

飲酒検知結果は、あくまで客観的なデータであり、それだけで、具体的な酩酊の程度が判断されるものではありません。人によりアルコールの影響はまちまちであり、同じ呼気中のアルコール濃度であっても、アルコールの影響度は人によります。
ただ、0.25mg/1リットルは、以前(現在は0.15mg/1リットルが基準)であれば、酒気帯び運転かどうかを分ける基準数値であったものであり(下限)、一般的には、この程度では運転に影響を及ぼすまでには至らないであろう、という酩酊度をうかがわせるものです。この数値だけで福岡地裁危険運転致死傷罪の成立を否定したものではないにしても、成立を否定するに当たり、考慮した重要な要素中の一つにはなっているものと推測されます。

▼尼崎や名古屋の事例と比較して、今回「危険運転」とみなされなかったのはなぜか。

これについては、上記「考えられる要因」記載の通りです。

▼今後「危険運転致死傷罪」の見直しが必要とお考えですか?

同罪の見直し自体は、刑法典中の犯罪構成要件であり、見直しはなかなか難しいのではないかと思われますが、同罪と、自動車運転過失致死傷罪の法定刑に大きな開きがあるのは事実で、その中間に位置する構成要件を設けることは、検討されてよいのではないか、と思います。
例えば、飲酒、無免許、ひき逃げ、その他の危険運転(構成要件上、明確化して)を伴って自動車運転過失致死傷罪に及べば、刑を加重して、懲役15年程度までは刑が科せるようにする、といったことも検討の余地はあるでしょう。

▼今回の判決は妥当な判決と言えますか?

国民の素朴かつ常識的な意識(飲酒して人身事故を起こし重大な結果を生じさせた場合は厳罰に処せられて当然である)に反している、という点では不当でしょう。その一方で、犯罪構成要件や具体的な証拠について、裁判所なりに慎重に検討し、その結果としてこのような判決が出たのも事実と思われ、その意味では、軽々に不当とも言いにくい面があります。
事実認定というものは、取り調べられた証拠の総合評価によるものであり、福岡事件についても、今後、福岡地検控訴し(その可能性はかなり高いと思われます)、福岡高裁における審理の結果として、危険運転致死傷罪が認定される、という可能性がないわけではありません。福岡地検福岡高検としては、判決文を十分検討し、補充立証が可能な点は行い、公益の代表者として、国民の疑問や期待に応えるとともに、被害者やその遺族の無念な気持ちを十分酌んだ活動を今後も続けるべきでしょう。