「真の警察官」、安らかに=宮本警部の公葬営まれる−警視庁

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2007032000992

葬儀委員長の滝沢慶二板橋署長は事故を振り返り、「君に、改めて警察官としての生き方を教えられた。自らの身体を投げ出し、職務に殉じた行動こそ、真の警察官の姿そのものだ」と語り掛けた。

以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20050323#1111510331

でも触れましたが、三浦綾子の「塩狩峠」を思い出しました。

http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pickup/20050315bk02.htm
http://hokkaido.yomiuri.co.jp/youyomi_05/tabi/t_051005.htm

こういった犠牲を積極的に肯定するわけではありませんが、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」という言葉の持つ重い意味を、改めて噛み締めました。

塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)

花見シーズン、飲みすぎ注意 宴会セクハラ、大手生保社員らに判決

http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200703210001a.nwc

広島地裁で、損害賠償請求が認容されたということですが、花見シーズンを前にして、身に覚えのある人々には耳の痛い内容でしょう。

営業所では01年12月に、親睦会主催の宴会が開かれた。その際に所長らは、(1)女性を前と後ろから抱きついてサンドイッチ状態にし、女性が嫌がると「何でわしじゃぁいけんのか」などと騒いだ(2)女性の脇腹をつかみ「これ、まわしじゃ。みんな見て見て」と騒いだ(3)抱きついた上に「写真ぐらいいいじゃないか」と写真を撮った−といった具合。

判決は、「これらの行為は、暴力行為および性的嫌がらせ行為で、女性らの身体的自由、性的自由、人格権を侵害する」と判断して、男性らの主張をばっさりと切って捨てた。

損害賠償への会社の責任についても、「親睦会といっても営業所全員で構成され、宴会が営業日の勤務時間内に開かれている」と指摘。宴会は「業務に密接に関連する行為として行われた」と述べて、使用者責任を認めた。

行為自体の違法性が認定されるのは当然の上、会社の責任(使用者責任)まで認定されていることにも注目すべきでしょう。使用者側としても、花見だから、と安易に考えず、こういった「暴走」行為がないように、被用者に対する指導監督を徹底する必要があります。

「ヒルズ黙示録・最終章」

ヒルズ黙示録・最終章 (朝日新書)

ヒルズ黙示録・最終章 (朝日新書)

購入したままで読めていませんでしたが、堀江被告人に対する判決が出たこともあり、読んでおこうと思い、一気に読みました。
公判の捉え方については、以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061002#1159717558

でも述べた通り、一見、検察官申請の証人が追い込まれ崩れ去ったように見えても、裁判所により核心部分の信用性は認められたり、捜査段階で作成された検察官調書のほうが採用されより高い信用性が認められる場合もあるので、この本に書いてあることを全面的には真に受けられないな、という印象を受けました。
村上被告人の公判で、検察官立証が難航しているとの報道が目立ち、確かに、あまり順調ではないようですが、事件の「筋」という観点で言うと、やはり、検察ストーリーのほうに、やや分があるのかな、という気が、この本を読んでいてしました。検察ストーリーでは、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061017#1161018378

でも触れたように、2004年11月8日に、ライブドアによるニッポン放送株大量取得方針が村上被告人側に伝達された、とされていて、現在、それがもっと後だった、という争い方がされているわけですが、11月8日以降、村上ファンドが、次々と大量にニッポン放送株を取得していることをどう見るか、ということが、おそらく、裁判所の有罪、無罪の心証に大きく影響するのではないか、という気がします。村上被告人ほどの人が、他人から預かった資金を、なぜ、ここまで大量に投入して買いまくったのか、ということについて、弁護人が無罪を勝ち取ろうとすれば、検察ストーリーを上回る説得力ある説明をする必要があり、それができなければ、裁判所の心証が大きく有罪に傾く可能性が高いのではないか、と、この本を読みながら思いました(あくまで感想です)。
こういった、事件の「筋」というものは、それだけで事件の帰趨が決まるものではないものの、特に、知能犯事件では、個々の証拠だけを漫然と眺めているだけでは有罪なのか無罪なのか永遠に結論が出ない場合が多く、同じ証拠関係でも、筋の捉え方で有罪にも無罪にもなる、という事件は少なくなく(だからこそ、証拠関係がそれほど変わらないのに原審と上訴審で結論がまったく異なったり、ということも起きます)、村上ファンドに係る事件についても、その辺が結論に大きく影響する可能性は高いように思います。