<名古屋高裁>美濃加茂市長に逆転有罪 浄水設備で現金授受

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161128-00000033-mai-soci

地裁判決は中林受刑者の供述が捜査段階で変遷しているなどとして「信用性に疑問がある」と判断した。検察側は「信用性に疑いをいれる余地はなく重大な事実誤認がある」と控訴した。

この事件については、過去に本ブログで取り上げたりマスコミの求めに応じてコメントしていて、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20150306#p2
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20150826#p2
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20160224-00054734/

この高裁判決についても複数のマスコミにコメントしたのですが、決定的であったと思われるのは、贈賄側の証言そのものについて、裁判所がどういう心証を得たか、そこが地裁と高裁では大きく分かれたということであったように思います。
その人自身の話を聞くとともに、その裏付けになる、あるいは逆にその信用性を否定する方向に働く他の証拠を見ていく、その作業を積み重ねることで裁判官は心証を形成します。その出発点はその人の証言そのもので、本件では、裏付ける、あるいは信用性を否定する方向での証拠はそれぞれ決定的なものではなく、言葉は悪いですが、「有罪、無罪、どちらの判決でも書ける」事件です(実際に地裁と高裁で判決が180度異なっています)。そこを分けたのは、担当した裁判官の全人格的な判断としての心証(贈賄側に対する)だったのではないかという印象を、私は受けています。
もちろん、有罪が正しい、無罪が正しいと決め付けることは困難ですが、高裁判決についての情報に接していると、従来のこの種事件に対する裁判所の事実認定の流れに沿った手法での認定ではないかと思われるものはあり、特に違和感は感じませんでした。
私自身、証拠を見ておらず、贈賄側の証言を聞いてもいないので、有罪、無罪どちらの心証も形成できないのですが、あくまで印象として言えば、高裁判決が指摘しているように、贈賄側が有利な取り計らいを期待して捜査機関にある程度迎合した面はあったとしても、渡してもいない賄賂をわざわざでっちあげて嘘までついて渡したことにするというのは、常識的に見ても考えにくいものがあり、細かい点での綻びはあるにしても、幹の部分での具体性、一貫性がある、供述の出方、記憶喚起の経過にも特段不自然な点はなく周辺証拠との整合性もあるということであれば、裁判官が有罪という心証を抱くことには一定の合理性はあるだろうとは思います。
今後、最高裁がこの事件を見て、どういった心証を抱き判断を示すのか、大きく注目されるところだろうと思います。
収賄事件で、特に収賄側が金銭授受を否認している場合の事実認定の難しさは

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20140705#1404544865

でもコメントしたことがありますが、実に難しいものであるということを改めて感じました。