東電元会長ら3人強制起訴へ 検察審査会議決

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150731/k10010173531000.html

議決の中で検察審査会は「元会長ら3人は原発の安全対策に関わるものとして津波による事故が『万が一にも』『まれではあるが』発生した場合にも備えなければならない責務がある」としています。
そのうえで「平成20年に東京電力が15.7メートルの高さの津波をみずから試算していたことは絶対に無視することはできず、災害が発生する危険を具体的に予測できたはずだ」と指摘しました。
そして「大きな地震津波の可能性が一定程度あったのに、目をつぶって無視していたのに等しい状況だった。適切な対策を取っていれば、今回のような重大で過酷な事故の発生を十分に避けることが可能だった」と結論づけました。
また、今回の議決では当時の東京電力の姿勢について「安全対策よりも経済合理性を優先させ何ら効果的な対策を講じようとはしなかった」と批判しています。

刑事責任としての過失が認定されるためには、予見可能性が必要であり、それは、社会通念上、それに基づく結果回避措置を講じなければならないと考えられる程度の「具体的」予見可能性でなければならないと、刑事法の世界や刑事実務では、通常、考えられています。そこをあまりハードルを低く下げ抽象化してしまうと、人の行動の自由が大きく制約されかねませんし、一般的に、「万が一」「まれな」可能性に、すべて備えておくことは現実的に無理でもあります。
ただ、原子力発電所、という、一旦、事故が起きれば甚大な被害が生じる施設については、求められる予見の程度も、一般の電車や車などに比べ、同じ程度ではなくより高いものが求められるべきだ、ということに、おそらく異論はないと思います。その意味で、そういった特殊性も踏まえて、上記の記事にあるように、東京電力自身が15.7メートルの高さの津波をみずから試算していた、という事実や、実際にも、例えばインド洋大津波のような大災害が発生していたことも併せ考慮すると、本件で、評価として、過失を認定する余地があり得ない、とは言えないのではないかと素朴に感じます。検察審査会の議決は、その意味で、違和感はなく、流れとして1つのあり得る考え方ではないかと感じられるものがあります。
今後の裁判の中で、裁判所が、証拠に基づきどのような認定をするか、大きく注目されるものがあります。