左半身ケロイド「平和宣言」に引用された82歳 「体力の限り伝える」

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130806/plc13080612520008-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130806/plc13080612520008-n2.htm

爆心地から1・8キロ。光や熱、放射線を直接、浴びた。むき出しだった腕や足には大やけどを負い、今も左半身にケロイドが残る。

「昭和20年8月6日の広島を覚えている世代は間もなく歴史から消えていく。体験を直接伝える時間はあまり残されていない」

私が生まれたのは昭和39年ですが、原爆投下後、まだ19年しかたっていなかった、惨禍の記憶もまだ生々しかった中に自分は生まれたのだなと感じています。幼い頃、夏に、親と広島市内へ行くと、薄着の関係で、身体のケロイドが生々しい人を見ることがあり、子供ですから思わず目を背けようとしたりすると、親からは、原爆で火傷をした気の毒な人だから普通にしていなさい、と厳しく言われ(厳しく言われたことが今でも印象に残っています)、努めて、ごく普通に振る舞い不快な思いをさせてはいけない、と思ったものでした。その親も(父も母も)、それぞれの父親を、入市被爆(原爆投下後に広島市内に入り放射線の影響を受けた)の影響で戦後早くに亡くし、また、親類にも被爆した人もいて、とても他人事とは思えないという気持ちがあったように思います。私が幼い頃には、広島市内へ行くと、傷痍軍人が、道端で白衣を着て道行く人に頭を下げ寄付を求めていることがあって、親に多くはないお金を持たされて(私の実家は決して裕福ではありませんでした)、その人の前に置かれた器にお金を入れたことも思い出されます。
私が実家で生活したのは、高校卒業までと、司法修習当時の実務修習時で、通算で約20年弱になりますが、8月6日というと、雨模様ではなく太陽が照りつける晴天の日が多かった印象があり、あの日、あの時間も、このようなぎらぎらと太陽が照りつける中、人々の暮らしがあり、一瞬にして暗転したのだなと感じていたことが思い出されます。
戦争の記憶が次第に薄れ風化し、ゲーム感覚で語られるようになることを、我々は懼れなければならないと思いますし、戦うべき時が来るのは避けられないとしても、戦った後に何が起きるのかを明確にイメージすることで、戦うことを極力回避することになり、また、始まった戦いを終結させることの重要性を強く考えることができるでしょう。
そういったことを、原爆投下後68年を経た今日、折にふれ考えていました。このような甚大な悲劇が再びこの世の中に生じないように、できることを着実にやって行きたいものです。