http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1342505253394/index.html
前日の8月5日夜から広島入りして、会場のはずれから、雨の中、式典の様子を見学してきました。広島で生まれ育った私ですが、式典会場に行くのはこれが初めてで、厳粛な気持ちで平和を祈念しました。
思い出したのは、中学生の頃、野球部の合宿で修道高校・中学の校舎内にいた状態で8月6日を迎え、敷地内にある慰霊碑の前で行われた慰霊祭に参列した時のことでした。高校生、中学生で、皆、そうした式典にふさわしい衣服も用意しておらず、Tシャツに短パン、サンダルといった、まったくそぐわない服装で、ばつわるく参列し、終了後、参列した遺族、関係者に、済みませんでした、と皆で謝ったのですが、老婦人が、いいのよ、来てくれて本当にありがとう、と、我々をじっと見つめながら涙ながらに言っていた、その姿が今でも思い出されます。ちょうど、我々くらいの年の息子さんかご親族を亡くされた方だったのではないかと思います。あの日の、在りし姿を、我々に見出していたのでしょうか。その後、既に30年以上が経ち、あの老婦人も既に亡くなったことでしょう。
平和記念式典が終わった後、平和公園内を歩き、旧制広島二中関係者の慰霊碑にも行って、お参りしてきました。
https://twitter.com/yjochi/status/496855017853177856/photo/1
私の父方の祖父が、当時、この学校で英語教師を務めており、広島市内で被爆して、即死は免れましたが、戦後、数年で、おそらく原爆に起因するがんで亡くなっています。また、母方の叔父が、当時、この学校に在学中で、広島市内で被爆し、母の話ではひどい火傷を負って自宅に戻ってきたとのことですが、戦後、技術者として働き、現在も存命です。慰霊碑裏面の犠牲者のお名前を見ながら、生存していれば、戦後の日本復興を支え繁栄とともに歩み、多くの人々が、叔父のように今でも存命であったのだろうと思い、原爆の残酷さを改めて強く感じました。
広島は、40数年ぶりの雨の中の平和記念式典だったとのことですが、雨に打たれながら、そして、上記の老婦人の涙を思い出しながら、戦後の日本は、膨大な犠牲と、涙と、平和への強い決意の上に成り立っていることを痛感しました。広島市長の平和宣言の中で、名実共に平和国家を目指す、という決意が語られていましたが、広島で、その他の地で、戦陣に散り戦火に倒れた人々が望んでいることも、正に、日本が名実共に平和国家として今後も存立することだろうと思いつつ、広島を後にしました。