長篠・設楽原古戦場

名古屋へ出張に行った帰りに、戦国末期に起きた有名な「長篠の戦い」が展開された、現在の愛知県新城市へ行ってきました。前から、一度、行きたいと思っていましたが、なかなか行けずにいて、今回が初めての体験でした。
戦いについては、

http://www.shinshiro.or.jp/battle/gaiyo-index.htm

で簡潔にわかりやすく説明されていますが、戦いとしては大きく2つに分かれ、前半は長篠城攻防戦、後半は、その西に広がる設楽原における織田・徳川連合軍と武田軍の野戦で、最近は、長篠・設楽原の戦い、といった呼び方をされるようになっているようです。
現地で、長篠城址やそこにある史跡保存館

http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3136,118,664,html

設楽原歴史資料館

http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3106,118,662,html

馬防柵

http://www.aichi-kanko.jp/search/detail.asp?id=5462

や、戦いのポイントとなった場所を見て回り、今まで二次元的にしか理解できていなかった戦いが、三次元的、立体的に理解できるように感じました。
事前に持っていたイメージでは、両軍合わせると約5万にも達する大軍勢が激突した設楽原は、広々とした原、という感じだったのですが、行ってみると、起伏に富み方々に小山が点在する、なかなか複雑な地形で、こうした複雑な地形と馬防柵が巧みに組み合わされ、鉄砲の大量使用(よく言われる3000挺まであったかどうかについては疑問があるようですが)も相まって武田軍が圧倒されたのだろう、ということが実感されました。
こうした織田・連合軍の勝利を生んだのは、武田軍をこの地に引きつけ寡兵(500名程度であったようです)でありながら耐え抜いた長篠城将兵の奮闘によるところが大きい、といったことや、長篠城を脱出し岡崎城徳川家康に救援を求めに行き、帰りに武田軍に捕えられ、長篠城へ向けて救援は来ないと告げれば助命、厚遇すると言われたにもかかわらず救援は来ると叫び磔刑に処せられた鳥居強右衛門の故事(その名は現地で「鳥居駅」として残っています)などを考えながら帰途に着きました。