徳川家康の嫡男・松平信康と正室・築山殿の死にまつわる謎が残る3つの通説

徳川家康の嫡男・松平信康と正室・築山殿の死にまつわる謎が残る3つの通説(歴史人) - Yahoo!ニュース

事件の際、信康を支える岡崎の徳川家臣団の多くが粛清・追放されている所を見ると、天正2年に発生した大賀弥四郎(おおがやしろう)事件(岡崎の高級官僚だった弥四郎が武田方に内通し武田軍を岡崎城へ引き入れようとしたが未遂に終わる)の様に岡崎家臣団中の家康に対する不満分子が信康を担いで何らかの行動に出ようという兆候はあったのだろう。

今年に入って、NHK大河ドラマ「どうする家康」の影響もあり、

など関連本をいろいろと読んでいるのですが、築山事件までの徳川家は、武田信玄、勝頼から猛烈に攻め込まれ相当に苦しんでおり、そういう状況下で、武田家と結んで存続を図りたいという勢力は、家中にはそれなりにいたはずです。そういう中で起きたのが、上記の記事にもある大賀弥四郎事件でしょう。

また、徳川家康は浜松、徳川信康と築山殿は岡崎と、別れて住んでいる状態で、浜松派、岡崎派といった対立が生まれていた可能性も高そうです。上記の本では、大賀弥四郎事件に信康や築山殿も加担していたという見方を示していますが、関与の程度はともかく、岡崎において、武田家と結ぶべきだという動きがあり、それに2人が同調するような形になってしまったのでしょう。

主体的に動いたのが家康だったのか織田信長だったのかはともかく、そこに、信康や築山殿と、信康の正室であり信長の娘である五徳との諍いも絡んで、対武田家で厳しく対峙する中、信康と築山殿を粛清するしかなかったという流れが見えてきます。

徳川家が置かれていた当時の厳しい状況が生んだ、不幸な事件であったと言えると思います。