<記者だより>裁判員裁判

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20090921/CK2009092102000050.html

話題になっているので読んでみましたが、市川記者らしい、思い切った発言ですね。

でも、問いたい。刑事裁判を、行政の官僚主導と同じ文脈で語ってよいのか、本当に裁判は民主的であるべきなのか。従来の裁判は、多数意見が優先される民主主義でなく、自由主義的であるがゆえに「あいつはクロ(シロ)」という世論の大合唱を無視して無罪(有罪)判決を出せる。国民が裁判権を握るべきは、刑事裁判でなく、行政責任を問う裁判の方だ。

司法というものがいかなる機能を果たすべきかということを考えた場合、主権者である国民の意見、意向が反映されるべき、といった側面がある一方で、国民の意見、意向に反しても、特に少数者の人権を守り、国民全体から有罪と見られている被告人に証拠不十分として毅然と無罪を宣告するなどの、一見、反民主主義的な動きも、長い目で見ると求められるという、一見、矛盾した要請が存在します。
最近、NHKでドラマになった「気骨の判決」の大審院判事吉田久

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090817#1250449454

が宣告した、戦時下の翼賛選挙を無効とした判決も、当時の国民の総意に照らせば、それに反するもので、その意味では反民主主義的なものでしたが、それがいかに民主主義を守るため貴重なものであったかは、長い年月を経た今となっては明らかでしょう。
司法がいかにあるべきか、ということを考える場合、そのような難しい、矛盾した要請がはたらく側面があるということは、今後も、制度を考える上で無視できないと思います。