明日への伝言:昭和のあの日から 新幹線公害訴訟 移転跡地は「負の遺産」

http://mainichi.jp/select/wadai/rail/shinkansen/news/20081203ddq012040009000c.html

名古屋新幹線公害訴訟:「ぼくの家も学校も、新幹線の近くです。授業中に新幹線が通って先生の声がきこえないときがあります。びょう気のとき、そう音でなかなかねれない。ゴーゴーと通る新幹線、スピードダウンしてしずかに走って下さい」−−新幹線開通の昭和39年に生まれた佐藤義彦君(10)=名古屋・明治小6年=は作文にこう書いた

裁判は1、2審とも慰謝料の支払いは認められたものの、最も切望した減速は公共性の厚い壁に阻まれた。そして86年、12年にわたる闘争は和解という形で収束した。
国鉄は良好な環境の保全を目的として長期的、総合的な視点に立った活用に積極的に努力する」。跡地問題は和解協定書にこう刻まれた。

上記の作文を書いた小学生は、私と同じ年の生まれで、新幹線に対する思いは、おそらく、今でも複雑なものがあるでしょうね。新幹線公害訴訟は、私の記憶の中も残っていて、当時、かなり大きく報道されていたことを覚えています。こういった負の側面についても、新幹線の歴史として目を受けておく必要があるでしょう。
騒音で思い出すのは、昔、高校生の頃、広島空港(当時)の近くで野球をやっていると、航空機の離発着の際、ものすごい音がして、耳が痛くなるほどで、それを思うと、最近の飛行機から出る音は静かになったと思います。輸送技術の進歩というものは、ただ単に速く、遠くへ、大量にというだけでは足りず、人に優しく人の中で共生するという点も併せて進歩しなければならない、ということなのでしょう。