もし可視化なら…「示達的な供述」示す資料にも 京都・舞鶴高1女子殺害事件

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140710-00000587-san-soci

元検事の落合洋司弁護士は「取り調べが可視化されていれば、誘導がなく、被告が自発的に供述したことを示す資料になった可能性もある」と話す。
落合弁護士は「可視化は客観的な供述経過を明らかにするもので、検察側、弁護側のどちらに有利に働くというものではなく、真実を主張する側にほほ笑むものだ」と指摘。「捜査機関は可視化を邪魔なものだと考えがちだが有利な材料にもなり得る」としている。

供述の信用性を判断する上で、「供述経過」は重要と考えられていて、従来の刑事裁判でも、検察官が証拠調べ請求していなかった捜査段階の供述調書を「供述経過」という立証趣旨で証拠調べして信用性判断の資料にする、といったことはされてきましたし、被疑者が作成した上申書等なども存在すれば参考にされてきたものでした。しかし、取調べが可視化されることで(つまみぐいではなく全面的かそれに近い形で)、供述経過は如実に把握できることになり、信用性を否定する方向だけでなく、肯定する(それも大きく)方向にも働き得るだろうと私は考えています。取調の際に、ここは誘導せずに被疑者の口から供述を得たい、と思い、取調官は予め知っていても水を向けずにじっと我慢しつつ被疑者の供述を待つことがありますが、それで目的とした供述が得られても、取調官側に予め知識はある以上、誘導したのではないか、それで出てきた、押しつけの供述ではないか、という疑いを、現行の取調べでは払拭することが困難なところを、可視化は、払拭する大きな武器になるもので、可視化に関する論議の上で、見逃すべきではない重要な視点だと私は思います。

追記:

最高裁平成26年7月8日第一小法廷決定(判例時報2237号141頁)・・・無罪とした高裁判決に対する検察官上告を棄却
写真面割りが適切な方法で行われてないことや目撃供述が変遷していることによる信用性の否定、被害者の持ち物に関する被告人供述が犯人性を推認させるとは言えないことが指摘されていて、間接事実による推認の限界を考える上で参考になるものと思料される。

2014年07月12日のツイート

退任のジャパネットたかた社長、テレビ通販出演は継続

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140712-00000044-asahi-bus_all

高田社長は1986年にたかた(現ジャパネットたかた)を設立。自らテレビの通販番組に出演する手法で会社を成長させてきた。

私は、ジャパネットたかたで買い物をしたことはないのですが、社長のあの甲高い、テンションが高い独特の声や巧みな説明を聞いていて、買いたい衝動に駆られたことは何度かあります。実にそういう才能のある人だと思いますし、こういうのを余人を持って代えがたい、と言うのだろうと思いますね。一種の無形文化財のようなものかもしれません。
退任して、むしろ雑事から解放されて、今後も思う存分出演して、いろいろなものを売りまくってほしい気がします。テレビで見られなくなると、きっと寂しくなってしまうでしょう。

(惜別)渥美東洋さん 刑事法学者・中央大名誉教授

http://digital.asahi.com/articles/ASG6J61J7G6JUTIL036.html

刑事訴訟法が専門の法学者。20歳で司法試験に合格し、34歳で母校の中央大法学部教授になった。

その原点は、10歳の時の体験だ。旧満州で生まれ、その地で終戦を迎えた。公務員だった父はシベリアに抑留され、母と2人の姉と帰国した。かつて父親が住んでいた浜松市は焼け野原となっていた。「日本を立て直す仕事をしたい」。このとき決心したと、後に妻蕗子さんに語っている。

確か、高名な刑法学者であった故・植松正教授の随想で読んだような記憶があるのですが、司法試験の口述委員として渥美先生を担当した際、ある質問に対してはA説で、別の質問に対しては今度はB説で、と鮮やかに切り替えて答えていて、実に頭脳明晰、優秀であったと述懐されていたことが思い出されます。今頃、天国で植松先生と渥美先生は語らっているのでしょうか。
戦前、戦中に生を受けた人々からは、上記のように、焼け跡に立ち日本再生を決意した、という思い出話がよく出ていたものでした。そういった人々が、日本のあちらこちらにいて、日本が誤った道に進むことを阻止する抑止力にもなっていた、それが日本の戦後であったような気がします。そういう人々が次々と鬼籍に入り、残された戦後生まれの我々に委ねられたものは大きいと感じるものがあります。
刑事司法が大きな変革の時を迎えつつある今、渥美先生は何を思いつつ逝去されたのでしょうか。ご冥福をお祈りします。

「証人の声、傍聴人に聞かせる義務ない」 東京高裁判決

http://digital.asahi.com/articles/ASG7B5QFJG7BUTIL04Q.html

判決などによると、2012年にさいたま地裁であった殺人事件の公判で、地裁は法廷外の部屋にいる証人にモニターを通じて質問する「ビデオリンク方式」を実施。この裁判の被告の共犯として起訴された男の弁護人を務めた塚田弁護士が傍聴席にいたが、証言の大半が聞こえなかった。
この日の判決は「裁判の公開の原則」について「保障されるのは公正さ」と指摘し、「傍聴人が証言をつぶさに知る権利を与えたものではない」とした。

いろいろと問題を含む判決ではないかと思うのですが、法廷内で行われていることが、逐一、傍聴人に理解されなければ公開されたとは言えない、というのはあまりに窮屈すぎるとしても、「公開」に値する程度に傍聴人にわかるような運用がなされていなければ、実質的に公開されていると評価できず、公正さが担保されないということになるのではないかと思います。
ただ、そういった、問題のある運用が行われた場合に、では、傍聴人の具合的権利性の問題として捉えることが果たしてできるのか、事は裁判制度としての在り方の問題であり、たまたま傍聴していた個々の傍聴人の権利が侵害されたと捉えるべき問題なのかという疑問も感じます。
裁判公開という憲法上の要請を、いかに実質的に実現するか、今後に大きな課題を残した判決という印象を受けます。