[書籍]<海上自衛隊>新大型護衛艦に「長門」命名案 異論で断念

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130727-00000015-maiall-pol

長門山口県西部の旧国名連合艦隊旗艦を最も長く務め1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦時は山本五十六(いそろく)司令長官が乗艦して真珠湾攻撃を指揮した。翌年、大和に旗艦を譲ったが、大和や姉妹艦「武蔵」の存在は極秘だったこともあり、国民にとって長門陸奥が海軍のシンボル的存在だった。

海自は命名の選考過程を明らかにしていないが、関係者によると、艦の規模などを踏まえ、海自内には最近まで長門を推す声も強かった。ただ、「長門」は、国内外から右傾化を警戒されている安倍晋三首相の地元でもある。政府が同盟強化を図る米国に加え、中国などを無用に刺激するのは避けたいとの判断も働き、最終的に見送りとなった。

以前、

軍艦長門の生涯 (上巻) (新潮文庫)

軍艦長門の生涯 (上巻) (新潮文庫)

軍艦長門の生涯 (中巻) (新潮文庫)

軍艦長門の生涯 (中巻) (新潮文庫)

軍艦長門の生涯 (下巻) (新潮文庫)

軍艦長門の生涯 (下巻) (新潮文庫)

を読んだことがありますが、開戦時の連合艦隊旗艦であった長門が、その後、戦艦の出番が次第になくなり活躍の機会もないまま、それでも他の大多数の艦船が失われる中、健在のまま終戦を迎え、戦後はビキニ環礁で原爆実験の標的艦として最期を迎えた、その栄光と悲劇に彩られた生涯に強い印象を受けたことが思い出されます。戦争という人間の営みの危険性や愚かしさを知り尽くしてビキニ環礁に沈んだ長門の名前を、海上自衛隊の艦船の名前として受け継ぐことは、右傾化、好戦的とは異なる、むしろ逆の意味を持つことになったのではないかと思われ、使われなかったのは惜しいことだったと感じます。
ビキニ環礁に沈む長門は、幾多の英霊とともに、今の日本や、このような事態を、静かに眺めていることでしょう。

2013年07月27日のツイート

安倍首相、あわせて11日間という異例の長期夏休みを予定

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20130728-00000731-fnn-pol

政府関係者によると、安倍首相は、8月15日の終戦の日を挟んで、8月10日から14日までと、16日から21日までの2回に分けて、あわせて11日間の夏休みを取ることを予定している。
この間、安倍首相は、山梨県の河口湖近くの別荘や、地元・山口県などで、ゆっくりと過ごすことを検討しているという。

私も、かつては「役人」でしたから、役人事情はそれなりにわかるのですが、上の人が休んでくれないと、下々の者はなかなか休みにくい、というのが役人の世界です。首相が率先して夏休みを取ることで、下、その下、さらにその下と、夏休みは確実に取りやすくなりますから、喜んでいる人も多いと思いますし、良いことでしょう。
危機管理体制はしっかりと取りながら、休めるときにはしっかり休む、ということは、その場限りではなく、政府内でも定着してほしい、と感じます。
なお、首相の夏休みに関するエントリーで畏れ多いことですが、私も、8月12日の週は大部分、夏休みをいただく予定です。

「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川

http://www.47news.jp/news/2013/07/post_20130726140202.html

北条早雲が1495(明応4)年、小田原城奪取を成し遂げた奇襲戦「火牛の計」は津波被害に乗じた侵攻だった−。静岡県伊東市が3月に刊行した市史・災害編で、こんな見解が示された。小田原城奪取については諸説あるが、地震津波の痕跡とみられる堆積物の分析から導き出された“新説”は、小田原市民の関心を呼びそうだ。

今回のような天災と政変を結び付ける研究例は少ないとされる。地層の成分や含有物から地震の発生時期や規模を探る津波堆積物の分析は、東日本大震災でクローズアップされた。ただ、考古学分野での活用はまだ少なく、小田原市内の調査が待たれる。

気象が、歴史的事件に大きな影響を与えた実例は多くありますが、津波による大きな被害が、攻城を容易にして奪取へと結びついた、という可能性はあり得ることであり、今後の研究にも待つ必要がありますが、なかなか意欲的な見解、ということを感じますね。
決定的な論証は難しいと思いますが、当時のその地域の実情を記録した古文書、古記録を積み重ねることで、こうした見方が裏付けられる可能性はあるのではないかと感じます。
津波による混乱に興じた攻城、奪取であったとすれば、北条早雲は、さすがに日本史上に残る戦略家、戦術家ということになるでしょう。