ケネディ―「神話」と実像

ケネディ―「神話」と実像 (中公新書)

ケネディ―「神話」と実像 (中公新書)

少し前に購入して、読んでみたところ、おもしろいので、寝る前などに少しずつ読んでいるところです。ケネディ元大統領の生涯について、かなりの参考資料に基づき、コンパクトにわかりやすく説明されていて、その歩みがよくわかります。これだけの人物が、40歳代半ばにして非業に倒れたことは、やはり、惜しまれると言うしかありません。
ヒラリーとの間で民主党大統領候補の座を激しく争っているオバマを、ケネディの再来になぞらえる動きがあるようですが、ケネディの生涯を見ていると、そこに夢や希望を見出そうとしたアメリカ国民の気持ち、ケネディ亡き後にも、その再来を期待する気持ち、といったことが、何となくわかるような気がします。

「反骨のコツ」

反骨のコツ (朝日新書 69)

反骨のコツ (朝日新書 69)

私自身、團藤・大塚説で刑法を勉強した人間ですから、團藤先生の本は、

わが心の旅路

わが心の旅路

も読んでいて、この本にも興味を感じ、読んでみました。ただ、内容は期待したほどではなく、やや老人の繰り言的な印象もあり、世に出すのであれば、対談よりも、きちんと推敲した上での著書のほうが良いのではないか、と思いました。
興味を感じたのは、團藤先生が、自説に対し、陽明学の影響がある、と指摘され、江戸時代の陽明学者である山田方谷の名前が挙がっていたことでした。確かに、岡山出身である團藤先生に、その地域から出た山田方谷や、さらにその前に岡山藩に仕えた陽明学者・熊沢蕃山の影響がある、というのは、うなずけることです。
私が山田方谷を知ったのは、司馬遼太郎

峠 (上巻) (新潮文庫)

峠 (上巻) (新潮文庫)

峠 (中巻) (新潮文庫)

峠 (中巻) (新潮文庫)

峠 (下巻) (新潮文庫)

峠 (下巻) (新潮文庫)

を読んだことが切っ掛けでした。遊学中である主人公・河井継之助は、はるばる岡山に山田方谷を訪ねて師事し、多大な影響を受け、山田方谷河井継之助の非凡を見抜き、越後長岡藩河井継之助にとっては小さすぎる、とその後の過酷な運命をも見抜きます。その後、越後長岡藩の家老となった河井継之助は、幕末の動乱の中で中立の道を模索しますが、時代の受け入れるところにはならず、武装恭順路線を官軍にはねつけられ、官軍に抗して激越な北越戦争に突入します。そういった「飛躍」の背景にあったのが、「知行合一」を旨とする陽明学の教えであった、とするのが司馬遼太郎の見方で、今でも強く印象に残っています。
司馬遼太郎は、確か

殉死 (文春文庫)

殉死 (文春文庫)

で、乃木希典に、自らは陽明学の系譜に連なるものである、と語らせていて、その中に

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (2) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (2) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (3) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (3) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (4) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (4) (文春文庫)

で取り上げられている吉田松陰も位置づけられ、幕末を描いた一連の司馬作品の中で、陽明学は非常に重要なファクターになっていると言っても過言でないと思います。
司馬作品に登場する陽明学徒は、吉田松陰河井継之助乃木希典と、皆、非業に倒れますが、團藤先生は、刑法学の大家となり、最高裁判事まで務めて、長寿にも恵まれ、幸福な人生を全うしようとしていて、そのあたりは陽明学徒らしくない(?)ような気はします。
そういったことを思い起こせたことは、「反骨のコツ」を読んだことによる収穫でした。

映画「ユゴ 大統領有故」

http://www.cinemart.co.jp/yugo/

今日の午後、ある事件の公判前整理手続期日があり、2時間余りかかって、その後も今後の打ち合わせなどを行っていたため、さすがに疲れてしまって、早々に仕事を切り上げて、この映画を観ました。
原作については、以前、読んで、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061225#1167019104
(奇しくも、ちょうど1年前の今日のエントリーです)

とコメントしたことがあります。
映画のほうは、リアルさが際立ち、それなりに楽しめましたが、事件が起きた背景に関する描写があまりなく、また、暗殺事件後の様々な緊迫した動き(原作ではかなり描かれています)の扱いもあっさりしていて、全体として、やや物足りなさを感じました。原作を読んだ上で観たほうが不満が残らない映画、と言えるかもしれません。
朴大統領の女性関係について、思わせぶりな触れ方がされていましたが、これは、上記の原作では触れられていないものでした。原作では、敢えてそこは避けていたのかもしれないな、という印象を受けました。

公判前整理手続期日

今日の午後、ある事件で、初めて、公判前整理手続期日を経験しました。被告人が出廷を希望したこともあってか、法廷で行われ、傍聴人がいない状態で(傍聴席に司法修習生はいましたが)、2時間余りかかりました。
事件の具体的内容に関わることは、ここでは触れませんが、感じたのは、従前の刑事手続で、3者打ち合わせが行われる場合では、被告人、弁護人としては、公訴事実中の何を認め、何を争うかを明確にし、検察官請求証拠に対する認否を明らかにしておけば、まずは検察官立証が行われますから、とりあえずはお手並み拝見、という状態でいられたところが、公判前整理手続では、争点を明確にし取り調べる証拠を決める、という手続の目的もあってか、整理手続の中で、被告人、弁護人としても、ある程度早期に、何を争点とするか、何を主張し何を立証したいのか、といったことを明確にすることが求められる、ということでした。その意味で、従来のような、「お手並み拝見」という待ちの姿勢ではなく、早期に、積極的に打って出る、という姿勢、攻勢に出ることが求められる、という面があるように思います。
ただ、そうは言っても、権力をほしいままにして白いものも黒くしかねない(最近、「国策捜査」関係の本を読んでいるので、多少、刷り込みもありますが)、強力そのものの捜査機関に対し、被告人、弁護人の力には自ずと限界がありますから、そういった事情もうまく裁判所に考慮してもらいつつ手続が進められないと、検察庁の思うがままの整理がなされる、その意味で形骸化した整理手続、検察官の独壇場をさらに際立たせ被告人、弁護人がそれに色を添えるセレモニー、といったことにもなりかねないでしょう。やはり、そこは、そういった力関係の格差にも配慮した裁判所の適切な訴訟指揮、といったことが強く求められるのではないか、という気がします。
戦後にできた現行刑事訴訟法は、戦前における裁判所の職権性を払拭し、当事者主義を徹底した点に大きな特徴がありましたが、公判前整理手続は、そういった当事者主義的刑事訴訟の中に、部分的ではありますが、新たな形で職権主義を持ち込み、裁判所の権限と責任において円滑な公判運営を目指すことにした、という意味で、かなりユニークな制度ではないか、という印象を持ちました。