謝るなら、いつでもおいで

謝るなら、いつでもおいで

謝るなら、いつでもおいで

2004年に発生した佐世保女子児童殺害事件から約10年を経て、被害者の父親(当時、毎日新聞佐世保支局長)の部下であった著者によるルポルタージュで、通読して、今後、この事件についての、参考になる確かな文献として
読み継がれることになるのではないかという印象を受けました。
発生当時はセンセーショナルな取り上げられ方をしていましたが、確かに、事件自体は残虐であり重大な結果が生じているものの、その切っ掛けは、加害者と被害者との間の、日常よくあるような行き違い、いさかいでしかなく、周囲の関係者が、事件後、なぜ、どうしてと繰り返し思ったのも無理からぬものがあると、読んで感じました。加害者の家庭(特に父親による接し方)に問題があったような語られ方がされてきた面があるようですが、本書で語る加害者の父親の話や著者が受けている印象(もちろんそれが正しいという決めつけもできないわけですが)から見ても、特に大きな問題があったとも言いにくい気がします。どこにでもある、ありふれた日常の中で、突如として起きた本件について、今なお、どう解釈すべきか、どう位置づけるべきか、答えが見えないのもやむを得ないことという印象も強く受けるものがあります。
答えのようなものが見えてこない中で、特に感じたことは、成長期、思春期の子供たちに対し、過度な介入は控えつつも、身近にいる大人は、できるだけリアルなコミュニケーションを欠かさないように努め、ちょっとした変化に敏感になるようにしたい、ということでした。これは、ITが発達して、各自が(大人も子供も)バーチャルな殻の中に入り込みがちな現在、特に意識して励行すべきことではないかという気がします。リアルかバーチャルか、ではなく、リアルもバーチャルもを心がけ、前者(リアル)の重要性を常に見失わないことが、後者(バーチャル)を生かすことにつながるでしょう。