「体罰がつらい」…自殺の高2、教諭あてに手紙

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-00000684-yom-soci

大阪市立桜宮高校(大阪市都島区)で8日明らかになった男子バスケットボール部キャプテンの2年男子生徒(17)の自殺。
部顧問の教諭(47)にあてた手紙には、体罰の厳しさやキャプテンとしての責任に苦しんだ心境がつづられていたという。

この教師は、私(現在、48歳)と同世代で、昭和50年代から昭和60年代初めにかけて、中学、高校、大学で、おそらく何らかのスポーツをやっていたものと推測しますが、当時は、スポーツの指導というものは指導者や先輩からの殴る蹴るといった体罰を伴うもの、ということが、当たり前というわけではありませんが、ある程度はやむを得ないものと考えられていた時代で、そういう中で鍛えられ人は強くなる、という風潮があったと、振り返って思います(それが良かった、と言っているわけではなく、当時としても誤っていたと思います)。
その後、少子化が進み、人の尊厳を尊び大切にするべき、という意識がさらに強くなって、上記のような風潮は廃れてはきましたが、教育界という閉鎖的な世界の中で、一旦、確立してしまった誤った指導観をそのまま維持しているスポーツ指導者が、まだまだいて、上記の、生徒を自殺に追い込んでしまった教師も、そういった中の1人なのではないか、という印象を強く受けます。
このような問題は、スポーツだけでなく、広くパワハラの問題にも通じるものがあるでしょう。私が検事に任官した当時(平成元年)、上司から怒鳴りつけられたり、立たされたまま怒られたり(私は1時間くらい立たされて怒鳴りまくられ怒られたことがありました)、といったことは当たり前のことで(検察庁では上司に記録を投げつけられた、という人もいました)、それでめげてしまうような人間は見所がない、という意識が根強くありましたが、今、それをやったら、即、パワハラでアウトでしょう。しかし、そういう風土の中で育ってきた人間は、そういう自分や育ち方に対する自負があって、つい、そういった方法に走りがちな、危険な面があるのではないかと思います。
人は、自分の、狭い、小さな成功体験に酔いしれがちですが、時代も、人の意識もどんどん変わるわけですから、視野を広く持ち自分も変わらなければ、骨董品のような存在になり、それだけでなく、他人を傷つけ取り返しがつかない事態すら引き起こしてしまう、ということを、強く、自戒とともに感じます。
大阪市の橋下市長には、この件の経緯を徹底的に究明し、責任者を厳正に処分するとともに、刑罰法令に抵触する事実が認められれば告発するなど適切な措置を講じ、併せて、再発防止策を具体的に講じることを強く求めたいと思います。