http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120503/trl12050322330001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120503/trl12050322330001-n2.htm
別の関係者は「豊富な経験を持つ人材を育てるという観点からも、判検交流は意義があった。しかし、批判や誤解を生むような制度は改めたほうがいいという判断になった」と話している。
建前やきれい事はともかく、判検交流は、戦前に「司法官」として一体化していたものが戦後になって裁判官、検察官に分かれた人々の、司法官僚としての一体性を根強く支える役割を果たしてきたもので、特に裁判官の「公正らしさ」を大きく損ねてきたものでしたから、縮小、廃止は妥当な流れでしょうね。
私自身は、判検交流の経験はなく、裁判所から来た人々の様子を傍で見たことがあるだけですが、所詮は腰かけの「お客さん」ですから、検察庁内の醜く深刻な問題点は目にすることなく、検察庁を肯定的に評価するようになって裁判所へ戻るのがオチだろうと、ずっと思っていました。こういうのが、上記の記事にあるような「誤解」なんでしょうか(笑)。
かつては検事任官者がなかなか確保できず、訟務検事(行政訴訟等で国の代理人になる)確保のため裁判官出身者を必要とせざるを得なかった面はありましたが、現在は、検事任官希望者が多く、訟務検事確保に難渋するような状態でもありませんから、裁判官の公正らさしさを損ねてまで判検交流を続ける理由も必要もないでしょう。
このようにして、裁判所、検察庁が一体化して「官」として君臨してきた、ということを、国民は十分に認識、記憶しておくべきでしょう。